部屋でクソ踊る


ときどき、部屋で踊るようになった。
Amazon Musicで小気味の良い曲が流れたら、椅子から離れて、冷蔵庫の前に行く。

踊り方なんて、何もわからない。
小学校の催しなどにすら参加したことがないので、本当に知らない。
だから、腕をバタバタさせたり、肩をぐにゃぐにゃさせたり、よくわからない動きをしてる。時折、リズムに合わせて柔軟体操もついでにやったりして、せせこましいこともある。

僕は顔がでかい割に背が低いので、定規で図ったら4等身くらいに収まる。
資本主義的な視点で見ると、確実に金にならないどころか発禁モノの光景だろう。何かの間違いでテレビに映ってしまったなら、全身に粗目のモザイクをかける必要がある。ウチの肉体がご迷惑をおかけしております。

部屋でくるくる回りながら、現代人は何とも不自由だなと鑑みる。
「踊る」という行為ひとつ取っても、そこには優雅だとか妖艶だとか、生まれ持ったスタイルが著しく優れている人々の特権的なイメージを最初に浮かべてしまう。その裏を返すと、そうでない人の踊りは滑稽で価値がないということになる。それはあくまで客観であるのに、踊る人本人の主観、心地良さは無視されている。地元の民族舞踏のようなものはもちろん別なはずだけど、少なくとも僕はこんながんじがらめなことを考えてしまう。

歌ったり、絵を描いたりすることも似ている。
全ては突き詰めると、自分がその瞬間に楽しいと思えるかどうかが大事なのに、いつの間にか「それをやることで他人から高い評価を受けられるか否か」に話がすり替わってしまうことが、往々にしてある。金になるかならないかで、時間の使い道を考えてる。踊ったり歌ったりとか、誰にも等しく与えられたものだったのに。

遠い島に住んでる、僕たちと全然肌の色も違う部族のおじさんは、こんなこと微塵も考えず無心に踊りを楽しむと思う。他人から見てじゃなくて、心から自分を楽しむだろう。都会に住んでる人ほど幸福度が低いっていうのは、なるほど合点のいく話だ。

だから僕は部屋で踊る。
鏡すらない部屋で、骨と筋肉と皮膚が、心地良くしなるがままに。
主観を再認識するために。少しずつ、凝り固まった常識が垢擦りみたいに落ちていく。SNSに決してあがることのない、クソ無価値で有意義なダンス。

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