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「セリーヌを読む」

有田英也・富山太佳夫 編  国書刊行会

植民地支配と表象より

 ・・・真の支配者はあらゆるものを破壊に至らしめるエントロピー増大の圧力なのである。
 セリーヌの根本的ヴィジョンにおいて、人間は無差別的な平等状態にある。人間は階級の、植民地主義の、人種の壁を越えて、避けられぬ風化と死の到来を前にみな等しい。
(p127)


「夜の果てへの旅」、アフリカ滞在の生ゴム取引の場面から。確かに主人公はどちらかと言えば植民地支配に批判的な立場にいるらしい・・・が、この取引(植民地支配の図式が露骨に現れる)の間彼は沈黙(の承認)し、他の箇所では差別用語で語ったりする。彼が支配者側に立っていることは間違いない。ただ、セリーヌの眼差しはその段階ではなく、それを見越したもっと先にある・・・これは自分も読みながら感じていたところだ。
商館の主人は風土病に犯されて、皮膚をしょっちゅう引っ掻いている・・・
(2011 01/11)

セリーヌとイスラエル

セリーヌの「夜の果てへの旅」がイスラエルで翻訳された・・・というお話。勿論、「こんな反ユダヤ主義の人物の作品など翻訳してよいのか」という、大戦経験者からの批判もあったりするのですが、大半は?そういうのも読んでこその歴史批判なのではないか、という見方だとか。「夜の果てへの旅」にどうそれを読み取るのか、も面白いテーマだが、別にそれ抜きでも面白い作品。逆にプロパガンダビラとかも翻訳するのだろうか? イスラエル建国の歴史も、その裏側あわせてイスラエル国内で相次いで紹介されているとか。
(2011 02/24)

セリーヌとフォード

「セリーヌを読む」を少しだけ。「夜の果てへの旅」の最初の方、主人公が戦争から戻り病院に入ったところで、「アングロ・ユダヤ・ニグロ」音楽と出会うシーン。これはジャズのことではないか?(第一次世界大戦でアメリカ参戦後、アメリカのミュージシャンが戦争負傷者を見舞いにきたということがあったらしい)。なぜそれが「ユダヤ」なのかと言えば、その元はなんとヘンリー・フォードにあるらしい、フォードといえば「夜の果てへの旅」でも主人公が工場勤務していたが、フォード自身がそういうこと言ってたらしい。
(2011 02/25)

「セリーヌを読む」の「ジャズ・アルコール・戦争」(2/25に書いた読みかけのもの)。
結局、この章の著者菅野賢治氏は、「夜の果てへの旅」や「なしくずしの死」の前から(具体的には「教会」という作品など)反ユダヤ主義はセリーヌの中で出来上がっていた。むしろ「旅」や「死」でどうしてそれが出てこなかったのか、ひょっとしたら知己の人々や同じような境遇にいた人にのみわかるような書き方で書かれてはいないだろうか?そう推測する。
(「死」では、少しだけ?反ユダヤ主義が見えてくる。あと、スイスでのセリーヌ(もともと医者でした)の上司やその知り合いがユダヤ人多いのも興味あるところ・・・どうなの?)

また、フォードだが、かなりの確信犯らしい。かのヒトラーがフォードの写真掲げてたとか・・・(第二次世界大戦はアメリカとドイツのヘゲモニー争いである、という説もあるが、ライバルは友達でもあるわけ?)・・・一方、セリーヌは「サクソン」(アングロではなく(笑))とつけることによって「ユダヤの巣窟アメリカ」と突き返している?わけ。

パリの異邦人たち

セリーヌは一時置くとして、アメリカに渡った(ロシアの19世紀末のポグロム辺りから)たくさんのユダヤ人、それらの中から、またその子孫から、ベニー・グッドマン、ジョージ・ガーシュインなどなどジャズの巨星が現れる(もちろん、全てユダヤ人というわけではないが)・・・この辺りの歴史。

またまた、第一次世界大戦でフランス領西アフリカ、カリブ、ギアナ地域(フランス領インドシナでももちろん)の黒人達がヨーロッパに集められ、「市民権」こそ手に入れられなかったものの、パリなどで「ニグロ共同体」を形成しそこから半植民地主義とか独自の文学運動とかあるいはアフリカとカリブ・南米の黒人が再会した意味とか・・・この辺りの歴史。ここにも大いなる謎と素材がある。

と、まあ、セリーヌに戻って(戻りたくない?)、まあ、彼らはこんなこと感じていたんでしょうね。植民地博覧会などやっていた時期に。

 パリじゅう、ニグロやらアジア人やらを味わい尽くそうと、たいした植民地熱です。ただ肝心なものがない。熱帯雨、寄生虫、そして腐敗作用です。専門家たるこの私の怒り心頭のほど、ご想像におまかせしましょう。
(p90 レネ宛の書簡から)


ニグロ・ユダヤ・アジア(日本人も当然入るんだよね、永井荷風とかいろいろ)は戦争やアルコールを持ち込み、ヨーロッパを逆支配する・・・のだとか。こういうことを「ふざけるな」とセリーヌに全面的に言えないのは、今の例えば中国に対する日本での言動(もちろん逆も)をみればわかる。そういえばヤセンスキの「パリを焼く」っていうのも黄禍病(だっけ?)要するにモンゴルがヨーロッパを支配する、というお話だったんだよね?一人セリーヌだけではないわけだ。というか、セリーヌはそういう感情を拡大鏡とか(日々の言説の)コラージュで見せている・・・のかな。

ますます、わからなくなるばかりだけれど、ほんとに「セリーヌを読む」必要性があるのだろうか? 反面教師という答えは抜きとして。
(2011 02/26)

セリーヌvs共同体


この間から再借りした「セリーヌを読む」をちびりちびりやっていたが、今日からやや本格的に?

今日は「帝国主義」のところ(昨日半分くらい読んだ)と、「なしくずしの共同体」のところ(のまだ冒頭)。

「帝国主義」では、植民地主義・官僚主義・帝国主義の手先末端としてアフリカカメルーン(小説内では架空の名前)に送り込まれたものの、傍観者から失敗者となり最後は出張所を焼いてしまう。その最後の方で熱病にうかされながら、現地黒人達と意思疎通し始める…これは果たしてカルペンティエール「失われた足跡」のように何らかの人類の歴史を見ようとしているのか…いや、とにかく即物的にその場しのぎ的に動き描くセリーヌ(というか主人公)だからなあ…

「なしくずしの共同体」の方は、まだ最初の節しか読んでないのですが、場当たり的な性格ももとより、もっと徹底的な個人主義的なセリーヌの主人公が、果たして共同体をどう捉えていたのか?「なしくずしの死」を元に論じようとしているが、この作品の場合、主人公は幼年期から青年期なので…「共同体内側」から眺める描写、ということになるのかな?

「なしくずしの死」とは延期し続けていく死とのこと。人間の生の営みは「どうやって死を先延ばしにしていくか」というだけのこと、ということは、「夜の果てへの旅」でも言及があった。「旅」がそれを個人レベルで言っていたのに対し、「死」ではそれを共同体レベルで取り上げる。周りの敵意、自然の介入、内部の無秩序と内通者(フェルディナンの子供の頃の挿話では、その内通者が外側の「悪い子」とつき合うフェルディナン自身ということになる)。こうやって、自分の家族から、子供の教育理想共同体まで・・・外側からはもとより、内側からも崩壊していく。政治的パンフレットはその「腐敗原因」を直言しようとしてたのかな?
(2011 03/01)

発話の宙空性


えーっと、「セリーヌを読む」もやっと中盤。今日のところは文体と語りについて。要するに物語内部の会話文と語りが渾然として判別しずらくなっているということ。もともと「夜の果てへの旅」で出てきたフェルディナンとロバンソンってのも語り手の分身みたいなもの。それがパンフレット作品(当然?語り手は現在の時点で、自分の考えを読み手に語る)をへて、作品の登場人物と語り手、それに読み手まで巻き込んで語りの量子雲みたいなのを作り上げていく。語り手や登場人物がセリーヌとかフェルディナンとかいう名前だから余計にわからない。
(2011 03/02)

告白から証言へ


「セリーヌを読む」今朝は標題の章を。これがかなり読み応えあるもので、精神分析(当時の)などに見られる「告白」という考えが、告白の虚偽性、精神病というものが社会的に産み出されたものであること、群衆心理学などと絡めて述べられている。そうして「旅」の語り手は、

 大きな、そして全面的な敗北、それは忘れてしまうことであり、しかもみなをくたばらせるものを忘れることだ。そしてそれは、どれほど人間というのはひどい連中かをなにも理解せずにくたばることだ。墓穴の淵まできたなら、しなければならないのは、訳知り顔をすることじゃない。むろん忘れたりしてもいけない。するべきは、すべてを、一つも変えずに話してしまうことだ。
(p297) 


という境地にいたる。そしてそれは、「何も語らずにただ耳を傾ける」という姿勢になる。最初、自己告白のところを読んでいた時、自分は「セリーヌの文学というものは全て「自己告白」だったのかな?」などと考えてしまいまったが…この姿勢が、昨日読んだ宙空性の文体を産んだということなのだろう。 
他にも、医者としてのセリーヌ、戦争神経症に電気ショックを利用することに対してのフロイトの見解、ル・ボンやタルドの群衆心理学、セルトーの「変質化的横断」(注を参照)や、フーコーやバフチンやトドロフ等々… 
これ一つで論文100個くらいできそう(笑)。 

郊外とセリーヌ

「セリーヌを読む」続きは第三部に移って「郊外とセリーヌ」。
パリ郊外の移民が多い地域で高校生の文章教室が行われ、それにセリーヌの文章が使われた、という。「都会の玄関マット」とは皮肉の聞いた言葉。そんな街にセリーヌは1940年代初頭に無料診断医として勤務していた、という。そのポスト自身、親ナチ政権のユダヤ・移民出身医師の権利剥奪で取ったものなのですが、その仕事でセリーヌは移民やユダヤ人にも人道的処理をしていた…とか。ますますわけわからなくなってきた…
(2011 03/03)

セリーヌマジックでござい・・・

 コップの水に入れた棒が曲がらずに見えるように、予めその棒を折っておくような処理により、<読者をまっしぐらに感動に送り届ける地下鉄>の如き効果を引き出す・・・


(p349 ギニョルズ・バンドⅡの解説で訳者高坂和彦氏セリーヌの文体について言及。セリーヌ自身の言葉は<>内か?)
ということで、「セリーヌを読む」を読み終えた。「棒を折る」のは、文体の流れ重視の点だけでなく、読者(世論)に合わせるようにするという意味もあるのか、現実を曲げるということもあるのか・・・セリーヌ全体を表彰する言葉かもしれない。

「セリーヌと現代日本文学」では、大江健三郎、野坂昭如、石川淳の3人を挙げている(この著者島村輝氏は「読むための理論」の共著者でもある)。
大江健三郎では「リゴドン」に示される「障害児への共感をもった眼差し」と、ナチス優生学が医者セリーヌにどう絡むのか?・・・自身障害者の長男を持ち重要な文学財産にしている大江氏はどう捉えているのか・・・等々を正面切ってではなく(と思われる?)「静かな生活」という作品の対話をもって見ている。
一方野坂氏、石川氏の二人については、文体の面から浮動する視点、情報量の多さと濃縮の差などが戦時中「焼跡派」に合致する文体だ、ということを述べている。「ある作家が別の作家に与えた影響」だけで見ないのはさすがに「読むための理論」を書いている人だけあるけど、大江氏の方の論点と、野坂氏、石川氏の方の論点があまり明確に結びつかないように感じる。どうかな。

セリーヌとユダヤ人

「セリーヌ問題」では富山太佳夫氏が英国のファシズム、反ユダヤ主義の変遷について延べ、「英国ではなぜセリーヌのような強固な姿勢が出てこなかったのか?」を論じている。
フランスでは、「国家有機体主義、古典主義、反ルソー、反革命、反民主主義、反ロマン主義」的な論調がドレフュス事件などを産みながら起こってくる。その基調には、「混ざり物があっては純粋な国家社会はできない」という思想がある(反ルソーってのもあるけど、ルソーはルソーでファシズム的、全体主義的なものが見られるとは中川氏が「転倒する島」(だっけ?)で言っていたはず)。
一方、英国では、経済ヘゲモニーの確立、それによる自由主義、移民がユダヤ人の他にいろいろ見られたことから、差別が分散化した? 先に述べたフランス反ユダヤ主義を身近に感じ共感を持っていたT・S・エリオット始め、ロレンスやイエィツなど文学者にもファシズム的方向を見せる作家もいたが彼らはそれぞれ独自に論を展開していたこと、英国のファシズム的な方向は「優生学・社会進化論的な」方向に大きく展開し(それに反論するのが「すばらしき新世界」?)、反ユダヤ主義のような振れは小さかった、ことなどを挙げている。
やっとセリーヌから開放される(笑)と(謎)
(2011 03/05)

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