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「幻の公衆」 ウォルター・リップマン

河崎吉紀 訳  柏書房


メディア論・社会心理学(ステレオタイプとか)の先駆者で第一次世界大戦の十四か条講話条件など実務でも活躍したリップマンの「世論」に続く著作。後には新自由主義の一派を築くが、ハイエクとは交流あったものの政府の役割をハイエクほどは否定しない(ハイエクやポパーら旧大陸の知識人とは戦争・差別経験が違うせいだろうか)。 
(2016 03/20) 

「幻の公衆」から、リップマン名言集(笑)

  感覚は思想ほど特殊ではなく、にもかかわらずより痛烈であるため、指導者は異質な大衆の欲望から同質なものを作り出すことができる。したがって、一般的な意見に協力をもたらすそのプロセスは、感覚の強化と意味の剥奪からなる。 
(p34)


「一般的な意見」とは、特殊具体的な個々の問題に立ち入らない、まあ「世論」のこと。この辺はたぶんリップマンの著書「世論」で綿密に書かれているのだろう。感覚の強化といえば動物行動学とかも関連する? 
続いての章でリップマンは投票を「戦争の昇華された姿」としている。動員とか似たような言葉も使われるし。女性に選挙権が長い間もたらされなかったのも一つにはこの伝統?があったのかも。 公衆はその問題がかなりの衝撃で伝えられた時に始めてその問題に気付く。

 公衆は第三幕の途中に到着し再終幕の前に立ち去る。 
(p46)


この辺の文章の巧さはジャーナリズム譲りだろう。そうした点ではマルクスも似ているのかな。 では、理想的な世論はどうあるべきだと考えているのか。リップマンの考え方は、直接その問題に関与する人ほどその問題をよく知っているという原則にのっとり、当事者同士→役人・政府→世論という順番を考えているみたい。
世論・投票のすべきは、指導者・指導政党を選ぶことであって、直接な意見は求めるべきではない、としている。この辺りどうなのか。前に読んだ、坂井豊貴「多数決を疑う」(岩波新書)のメカニズムアプローチとかと絡めて考えてみたいところ。 とりあえず読了。読み進めるにつれ抽象度が高くなって一読だとわかりにくいところもある。

解説によると、前作「世論」では所与の性的要素となっていた公衆を動的変数にしたらどうなるかを論じたのがこの本だという。

 意見を持つ者は特定の時と場所に立たねばならず、すべての世界ではなく、その地点から見える世界だけを理解することができるからである。・・・(中略)・・・世界なる絵は部分的に見たり聞いたりして描かれており、おぼつかない手つきで物事の影を扱い、無意識に心の欲望へと服従するからである。 
(p117)


ここでは政治社会学的な意味で書かれているが、認知心理学的にもそうではないか。証言の信憑性に関する議論など見ると。

 国際問題と産業関係の領域は、社会におけるアナーキーの二大中心地である。 
(p137)


1923年に書かれたこの文章。果して100年近く経過した現在ではどうか。 
(2016 03/27)

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