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「哲学個人授業」 鷲田清一、永江朗

バジリコ株式会社

哲学個人授業…


授業というか、対談に近いなあ。
まあ、そんな感じの本なので、一気読み。ヘーゲルの所有とかレヴィナスの他者とか九鬼周造とかアリストテレスの必然のパチンコ玉理論?とかが面白かったなあ。一方、元の言葉とは全然関係ない方向に行った回もあった。それはそれで…
鷲田氏は研究対象の哲学書は最初から一字とも逃さず精読するという。一回目はざっと目を通すとか、重要なところだけピックアップするとかはしないそという。そういう読み方で2・3年もかかる時も(再読時は他の読み方もするそう)。でも、鷲田氏にしても、最初は1割くらいしかわからないみたいだから、少しほっとする…そう?
(2011 03/31)

哲学個人授業(補講)


これだけでは何なので、上に挙げていた哲学者プラス、何気に読んでしまったフッサールを加えて、5つピックアップして再読。
フリーライターの永江朗氏と臨床哲学を掲げる鷲田清一氏が、一回一人の哲学者の言葉を出して語る対談形式。元々の連載は「ミーツ・リージョナル」誌。二回は、ミーツ・リージョナル編集長江弘毅氏が「乱入」し、レヴィナス回には内田樹氏がゲスト出演。鷲田氏や江氏は大阪弁(笑)。

フッサール(「デカルト的省察」)

 いままで哲学っていうのは説明するもんやった。それを現象学が初めて、哲学は起こっていることを記述するもんなんやと言った。
(p53)
 ものは言葉以前にあるんやなくて、それをどう語るかという語り方の記述のなかにあらわれてくる。
(p55)

鷲田氏の現象学ポイント。今までのフッサールの解説の中で一番わかりやすかったかも。

 これがグラスで、飲み物を入れて飲むものやというのは、誰から教えられたものやないのに、瞬時にわかる。その起源ってなんやろう。そこでフッサールは、間接的呈示(共現前)やと言ったんやないですか。
(p58)


これは江氏の発言。今読んで、マルケスの「百年の孤独」の記憶が無くなって物に説明書き貼って行く場面、この時失われたものはこの「間接的呈示」の能力だな、と思った…そしてこの間接的呈示には他我の視線が含まれているという。この「他我」っていきなり出てきたけど、「他者」とどう違う? 自分の身になって考えてみた「他者」?

ヘーゲルの所有(「法の哲学」)

 それが自分の物でなくなるという可能性が含まれているんであって、そうでなければ所有は成り立たない
(p72)
 所有するためには他人の承認が必要です。
(p73)


所有という概念と「かけがいのない私」という概念は同時に興隆した。所有は排他的。でも所有を禁じた社会は悲惨に陥った。

内田樹氏、江弘毅氏登場のレヴィナス回(「全体性と無限」)

 (レヴィナスの言葉がわからなく分類もできないから)しょうがないからデスクトップに置いたままにする。だからいつも目の前にあることになる。なんだか喉に刺さった小骨のようです。
(p93)


これは内田氏の言葉。この後、鷲田氏が(上の2011年の時に書いた)「一割もわかったら許せる」と続ける。

 私というものが、私ならざるものとの関わり合いにおいてしか、何者であるかを常に事後的にしか発見できない。そのときに私自身の自己規定を可能にする他者がいる。これがなんだかぜんぜんわからない。
(p97)


これも内田氏。この他者とは、普通の他者?価値観や情緒が理解可能な人のことではなく、全く理解不可能な他者のこと…死者のことではないかとも思ったりする。違うか。

 「他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである」
(p103)


これは鷲田氏が「グッときた」というレヴィナスの言葉。ナチズムの支持者が虐殺されるユダヤ人に対して抱くことだろうか。

アリストテレスの必然のパチンコ玉理論(「形而上学」)

 人生はパチンコ玉、ですね。
 そうそう。パチンコ玉で、釘に当たる。でも当たって弾けたあとは必然なんですよ。でも弾けた先にまた釘がある。
(p195)


釘に当たる瞬間だけ偶然なのか。パチンコ玉見てると複雑な動きしてそうだけど、それは多数の必然の掛け合わせ。

 人生というのは、こうでもあり、ああでもありという可能性を、一つ一つ取り下げていくんですよ。残ったものが一つずつあるから、それをつなげると一本線に見えるだけ。ところが、哲学は深くて、そうより他はありえないと考えることで豊かになるのも人生なんです。
(p196)


ここで鷲田氏が引き合いに出すのはピアニストの舘野泉。病気で片手が使えなくなった。「その偶然がピアニストとしては最大の必然になった」5本の指を必然と考えることで、限界を超える世界が作り出せる。鷲田氏はそう考えている。

九鬼周造(「偶然性の問題」)

 偶然性は同一律の外にある。つまり偶然性を論じるには、同一性を否定するものを同一性のロジックの中で表現するしかない。
(p201)


鷲田氏は西洋哲学においては「偶然性はいつも二次的にしかし扱われてこなかった」という。そして九鬼周造は西洋的概念を用いて西洋以外の別の論理を見つけたレヴィ=ストロースにも近いと。

 偶然性が怖いのは、論理とか秩序とかの根底を揺さぶるから。
(p204)
 そう考えると、私たちの生活は偶然性を排除することで成り立っているともいえる。
(p204-205)
 九鬼の場合表現、同一のものを共有してなきゃいけない共同体なんてだめなんだ、という考え方。たまたま出会った者同士の共同体でないと、とね。
(p205)


鷲田氏が言う、(和辻哲郎の「風土」に対抗した)九鬼周造が倫理について語った唯一のところ。これに続く鷲田氏の「ネットワークの思想に近い」は注意が必要。今のネットワーク社会の現状ではなく、「ネットワークの思想」。
先のレヴィナスの思想を明るく言い直すとこうなるのかもしれない。とりあえず九鬼周造ファンになりそう(笑)。
(2023 02/19)

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