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「カネッティを読む ファシズム・大衆の20世紀を生きた文学者の軌跡」 宍戸節太郎

現代書館

今は「カネッティを読む」を読んでいる。「眩暈」は最初はキーンみたいな変わった?人8人で構成された小説だったという…
(2014 06/04)

結婚式と虚栄、2つの劇


「カネッティを読む」はカネッティの文学時代?の劇作品2つ。「結婚式」と「虚栄の喜劇」。前者がとある家の権利を皆が狙っている中での結婚式、後者が虚栄に通じるとして鏡や写真を禁じた社会…両者とも明確な筋はなく言葉の渦に巻き込まれる感じかな。

 辛うじて言葉をつなぎ留める表象、家の倒壊とともに、登場人物たちの言葉は通常の論理では理解できないものとなり、言葉が独り歩きし始める。
(p50)
 いかなる語られた言葉も偽りだ。いかなる書かれた言葉も偽りだ。どんな言葉も偽りだ。だが言葉なくして何があるというのだ?(「断想」より)
(p53)


言葉を使って果てしなく大きくなる不条理な動きに、同じ道具である言葉で立ち向かわざるを得ない悲壮感が伝わってくる。
カネッティ喜劇のベースはアリストパネスだという…
(2014 06/05)

群衆と権力、そして猶予された者たち


カネッティの主著とされる「群衆と権力」、基本は人間は対人・対他的に恐怖感を抱いており、それから逃れる唯一の方法が自ら群衆に飛び込んでその一部になってしまうということ。そこを権力が利用する…というより、そこに権力というものが発生する源がある、ということ。
この作品が発表された時など、常にカネッティ擁護の論を張っていたアドルノとのインタビューがある。著者宍戸氏によると、目指す方向性は似ているもののお互いに理解できないもどかしさがあった、という。
後は、中世の霊と現代の細菌・ウィルスは先の人間の対他的恐怖という文脈では同じ立ち位置にあるという指摘も面白かった。
で、この「群衆と権力」を一時中断して取りかかったのが、「猶予された者たち」という劇作品。これまた?個人の誕生の時に死ぬ日時が書かれたカプセルが渡される、というアンチユートピア作品なのだけど、時期が時期だけに「群衆と権力」実践編のような作品なのだという。
(2014 06/10)

群衆と火とキーン


「カネッティを読む」とりあえず本文部分は読み終え。後は注…

後半のキーワードは「変身」。模倣(ミメーシス)とも似ていて、相手に心の底からなりきる技。そうした技法に異議を唱え「詩人追放」を提案した「国家」のプラトンを反対軸に置いて論を進める。
そう、「眩暈」のキーンはカントである以上にプラトンであるのだ。

 自己を主張する力と権力とは、人間はつねに独立した個人であることを求め、他方人間はその意に反して、同じ変身の能力故に個を踏み越え、群衆ともなる。
(p129)


群衆は火のようなものだ、とカネッティは言う。キーンは自身の図書室に火をつけて自殺するだけでなく、他にもいろいろ火にまつわる夢想を様々にめぐらしている…だけでなく、キーンという名前自体も脂分が多い松明用の松材の意があるという。変身=群衆=火と結び付くのだとすれば、プラトン=キーンはそういう突発的な群衆を恐れていた、という図式になる。
(2014 06/12)

洞窟の比喩とベンヤミンの言語観


「カネッティを読む」の注を読む。っても少しだけだが…「眩暈」でキーンが小さな穴からしか外が見えない管理人の部屋に閉じ籠るのは、プラトンの洞窟の比喩につながるのでは、という指摘もある…少し苦笑。
注からもう一つ、ベンヤミンからの引用部分。

 かくして言語は模倣的行動の最高の段階であり、非感性類似の最も完璧な記録保存庫であると言えよう。つまり言語は、模倣によって発見、理解するという、かってあった諸力がそこへ残りなく流れ込み、ついにそこで魔力が解消されるにいたった媒体なのである。
(p198ー199)


「模倣の能力について」に書かれているこの文章。昔、プラトン以前にあった何らかの力の名残が現在の言語である、というもの。次の北島氏の「変容の場を開く」言語というのと合わせ、言語というものにに含まれている可能性を示唆している。
(2014 06/13)

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