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「峠の歴史学 古道をたずねて」 服部英雄

朝日選書  朝日新聞社

序論

福岡と佐賀の間の脊振山脈の福岡側に塩買道という地名がある。これは海に面していても潟地形だと塩田ができないので、有明海側から鳥栖辺りまで船、そこから歩きで峠を越して塩を買い付けていたというところから来ている。あとは牛は足元の隙間(穴)をとても気にするので、橋を渡らせる時はござみたいなのに上から土を掛けて通し、終わったらそれを外す、というようなことをしていたという。
要するに、谷沿い、川沿いの道より、尾根伝い、峠を越す道の方が近代までは重要であった、という話。
(2021 04/01)

序論(総論)終わり。近代に五街道等が整備されるまで、公道、橋その他いろいろは有料。例えば橋の場合は橋寺なるものが横にあってそこで支払う。勧進という名目も通行料あるいは整備料。

近代史料に「道が閉鎖」とか「道が開通」とかあるのは、公道が私道化する(閉鎖)、私道が公道化する(開通)という意味。
(2021 04/07)

中山道の和田宿と与川道

参勤交代などは3月から11月頃までで冬場は通らないのだが、様々な理由で冬に通ることもある。その場合は踏み固め人足なるものも動員されたという。和宮一行の通過の際には、この年に宿場が火事になったこともあって、逆に「これを好機」と整備資金を手に入れる。この後の天狗党の戦いの時は、なんとか自分の宿場を燃やされないようにしたうえで、どちらかというと、対価を払った天狗党の方に情が移ったという。

与川道は三留野と野尻の間の脇道。本道が川沿いの難所だったのに対し、与川道は時間はかかるけれど確実だということで姫宮(第9代将軍家重の妻)降嫁の時にここを通った。こちらも歴史の道として整備されている。
(2021 04/14)

鎌倉街道の章。上高地付近編。

この辺の鎌倉街道と呼ばれた古道は3つ。
今の国道の西側の尾根を行く(1970年の調査の写真が残る、ダム建設で分断され、廃村となった尾根の村の一軒一軒を知っている子供がその頃にはいた)大野川道。
徳本峠中尾峠を結ぶ徳本峠道(現在の谷筋の登山道とは異なり島々から尾根へ登る道)。
奈川村を通らず(一般的な野麦峠は奈川村から飛騨野麦へち向かう)野麦に行く野麦峠道。

前にも書いたように牛馬が通れるように尾根道が多い。
近世に開通した街道に追われて旧道化した道が鎌倉街道と呼ばれやすい。
これらの道の近辺には麓の村の焼畑が見られる。
(2021 04/15)

鎌倉街道岐阜県編

(旧)明宝村付近で越前道と加賀・越中道が合流し、下呂から中津川行って旧東山道につながる。

やはり尾根道で服部氏が調査した頃には、もう鎌倉街道の名前を知っているのはごく僅かな高齢者だけだった。でも、この辺の人達まで「いざ鎌倉」で鎌倉へ行くためにこの道利用したとはなんか自分は考えにくいのだが…
(2021 04/16)

佐々成政のサラサラ(ザラ)越え

服部氏の推測は、成政が越えたのは針ノ木峠ではなく、安房峠ではないか。飛騨の三木(姉小路)氏とは盟友(というより成政が主で三木氏が従)の関係だった、というもの。飛騨側の上宝(高原)はほぼ成政の直轄地。現在の安房峠の南側を越え、後は上記鎌倉街道尾根道を進んだのではないか、という。
(2021 04/17)

肥後球磨郡人吉の相良氏のアゼチ道

人吉から八代までは、佐敷まで出て船などでという方法と、ほぼ八代へまっすぐ、九州自動車道に近い(ちょっと西側)稜線上のアゼチ道がある。この道は相良氏の八代攻略時に使い、また明治十年の西南戦争(だからこの戦いを十年戦争とこの辺では呼んでいる)でも使われた。
(2021 04/19)

信仰の道から、熊野街道・小栗街道、それから四国遍路道

この本での共通テーマは癩病患者(他に肺病などもろもろ)の通る道、熊野街道の場合は、本道に時に分かれ枝道となりそういう人々が歩く道。泉佐野にはそういう人々の集落もあった。四国遍路(愛媛県)の場合は、旦過(元々は禅宗や真言宗などで修行希望の人々を試しつつ泊めた場所)という地名が遍路道沿いで見つかる。一般の人々に見られないよう、でも接点を確保するように道は続く。
(2021 04/26)

国東半島の峰入り

国東半島の峰入り(2000年)に著者が一般参加した時の話。中世に始まる峰入りは、近代には20日間くらいかけて回ったが、廃仏毀釈で峰入りが行われなくなった明治期以降を経て、復活した現代では5日間、宇佐八幡宮から熊野磨崖仏までは省略された。普通、穢れを嫌うため民家は訪れないが、特に信仰に厚い家だけは訪れるとか、子供の疳の虫を治すための行とか、いろいろ。テレビ局の取材もあって、次の峰入り(だいたい10年おき)は一般参加者をどうするかまた議論になるだろう、と書いてあった。

伊吹山

例えば富山の薬売りは立山信仰から、伊吹も薬草と信仰の結びつきがある。
(2021 04/27)

伊吹山には中世4つの大きな寺がある。徐々に寺同士で相論(訴訟の裁判)が多くなってくる。中世、鎌倉幕府の倒幕を後醍醐天皇とともに行っていたとか、信長の薬草園伝説(著者服部氏は支持しているようだ)など。服部氏の父親は薬剤師で昔は薬草をここでも採取したという。
(2021 04/28)

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