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「夢に見られて ロシア・ポーランドの幻想文学」 沼野充義

作品社

読みかけの棚から
読みかけポイント:オレーシャ「羨望」読むための副読本…あとは適当に興味あるところをぱらぱら。

オレーシャについて

第3部から、オレーシャについての二つの章「羨望の軌跡」、「ユーリイ・オレーシャと空想文学」、そして最後の「ミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ」を読む。最初のはオレーシャの自伝的解説(飛行機への関心など「羨望」に出ていたが)、賭博で落ち目だった家計、オデッサでポチョムキンの反乱が起きた時の混乱、彼がポーランドへ行く両親についていかなかったのはオデッサで大恋愛中だったということ、「沈黙」していたと言われているスターリン時代にも普通の記事はたくさん書いていたことなど。
次の空想文学との関連では、ウェルズと「羨望」でのオフィーリアとの繋がり、「三人のでぶ」とアレクサンドル・グリーンとの関連など。
(2020 11/15)

ヴェニアミン・カヴェーリン

 かくして世界は、さながらロシアの農婦人形、マトリョーシカのように重層化した〈劇中劇中劇…〉の構造によって組み立てられて行く、その中で作者は結局のところ、夢を見る(操る)存在であると同時に、夢に見られる(操られる)存在なのだ。
(p245-246)


ヴェニアミン・カヴェーリン(1902年、プスコフ生まれ)の生涯と作品の章。この章のタイトルが「夢に見られて」という、この本全体のタイトルともなっている。この図式を「どのような作家も時代状況によって操られるように書いている」というように一般化するのは沼野氏も止めているが、このカヴェーリンという作家については、どうだろう、この図式に親和的な作家かもしれない、と沼野氏は感じているのだろう。
モスクワに行ってベールイに会った。「詩を書いている、というのはちょっとまずいことだよなあ」と言われ、「やめました」「それはいい」と続くのだが、ここにはベールイの創作姿勢、過去の伝統からの断絶の意識というものがあったのだろう。
続いてペトログラードに行き、「第十一の公理」という短編を書く。

 ロバチェフスキー(非ユークリッド幾何学)は無限の彼方で平行線を交差させた。それならば私だって、二つの平行な筋書を無限大の中で交差させられるはずではないか? 必要なのはただ、その二つの筋書が時間や空間に関係なく、究極のところで合わさり、一つのものになることなのだ。
(p254)


この「第十一の公理」は新進作家はもちろんのこと、ゴーリキーまで(部分的にではあるが)賞賛しているのだが、若書きということで出版されてないという。
そしてカヴェーリンはここペトログラードで「セラピオン兄弟」というグループ(セラピオンはホフマンの作品の登場人物)に入る。彼らは一つの文学信条を共にするというわけではなく、議論し切磋する仲間というところだった。
(2020 11/24)

続いてカヴェーリンの後半から。

 『師匠たちと弟子たち』は、特異な幻想短篇集である。かつてツヴェタン・トドロフは、幻想小説の本質を「現実と非現実の間(あわい)で揺れ動く〈ためらい〉と規定したが、カヴェーリンにはためらいはほとんどない。登場人物たちが読者の現実とはまったく別の架空の世界でうごめく影たちでしかないことは、最初から明らかだ。
(p270)


(2020 11/28)

ベールイとグリーン

 小説の真の舞台は、頭脳労働によって消耗し切った、しかも小説中には現れないある人物の魂なのです。そして、小説の登場人物たちは、いわば意識閾にまで浮かび上がって来なかった、心の中の形象です。
(p223)


「ペテルブルク」に事実誤認?があったことをある批評家から指摘された時の、ベールイの言葉。
グリーン(アレクサンドル)は、とりあえず最初の1章。ロシア・フォマリスト、シクロフスキーの60年越しの回想記から。

 「目で触れてみることだ」と、わたしにグリーンが言った。「氷は黄色い、ということが、君にはわかるだろう。これは、いま、あの空が青い、というのと同じように、確かなことだ。空がいつどんな風で、氷が実際にどんな色をしているか、ということを見なければならない」
(p230 「流氷」)


(2020 11/25)

オレーシャとレオーノフ-ドストエフスキーの影響という点から見た


オレーシャは本人はトルストイが好きらしいが…ドストエフスキー的モチーフもちらほら。「羨望」のカワレーロフは「地下室人」の典型だし、イワン・バビーチェフの少女に対する愛憎合わせた感情もドストエフスキーの主人公によく見られる。弟アンドレイの「25コペイカ食堂」は、これら「地下室人」が憎悪する理性的な「水晶宮」(ドストエフスキー)を数字を明示することによって明確に受け継ぐ。けれど、ドストエフスキー的ポリフォニーを、文体や構想を現代化することによって批判的に受け継ぐ(オレーシャは「白痴」を舞台化した時にいかにもドストエフスキーらしい夜会の座興を別のものに変えたという)。

レオーノフの方はもっとドストエフスキーに自覚的。代表作の一つである「泥棒」は、ドストエフスキー的人物の集まりみたいな泥棒集団の居酒屋ポリフォニー…らしい、まったくもって…らしい(笑)。「抽象的人類なら愛せるが、具体的人物となると憎しみしか感じない」というドストエフスキーのテーマも主要登場人物に受け継がれている。という「泥棒」なのだが、一方この「泥棒集団」を取材して何か書くという作家が現れて、ロシア初?のメタフィクションという面も持つ。そしてそんな作家を書く作家、鏡に映るように並び、これら「作家」たちが「格下げ」(「格上げ」でもいいんじゃないか?)されて、登場人物から批判されるとか。メタフィクション化したドストエフスキー?
…ソ連の社会主義リアリズム盛んな頃は、ドストエフスキー的であるという批評は、「ドストエーフシチナ」と言ってかなり否定的に捉えられていたらしい…
(2020 11/28)

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