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「モリー先生との火曜日」 ミッチ・アルボム

別宮貞徳 訳  NHK出版

感情と客観視

著者ミッチ・アルボムの恩師、モリー先生の闘病と哲学の記録。とりあえず前半から2箇所。

 われわれのこの文化は人びとに満ち足りた気持ちを与えない。文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの強さを持たないといけない
(p47)


このモリーの言葉を実践できる人はどのくらいいるだろうか。著者のアルボム自体もウィンブルドンの取材とかでその言葉のありがたみと難しさを噛み締めている。でも、どんな文化を生み出せばそれに近づくことができるかは考えていた方がいい。その文化は高尚なものである必要はない…というか日々の行動の積み重ねなのだ。
でもそんなモリー先生も(父が毛皮職人だったので)毛皮加工工場に連れてこられ、ここでは働けないと思い…「ほかになるものがなくて教師になった」(p82)らしい。

 咳がこみ上げてきて胸が締めつけられるような気がするとき、次の息をどうついていいかわからないとき-こういうときはぞっとする、と言う。まず最初に味わう感情は恐怖と不安。しかし、その感触がつかめると-その性質、湿り気、背中を伝う震え、頭の中を走る熱い閃光を実感すると-「よし。これが恐怖っていうものか。では一歩さがって、さがって」と言えるようになるのだそうだ。
(p108)


(特に自分にとって)大事なのは、一回はその感情にとことんまで浸る、ということ。それなきには、引いて考えることも客観視することできない。
(2023 07/17)

父親と弟

 「その場に完全に存在しているってことが大事だと思う」とモリーは言う。「つまり、誰かといっしょにいるときには、その人とまさにいっしょでなければいけない。今、君と話をしているこのときも、私はふたりの間で進行していることだけに気持ちを集中しようとつとめているよ。
(p138)


モリー自身の父母(母は早く亡くなり、その後父は外に出て電柱の傍でじっとしていることが多くなった。そして、息子たちが独立したあと、同じように一人外へ出て強盗に襲われ、ショック死してしまった。モリーは父親とできなかったことを今している。
(2023 07/18)

今日読み終え。
「第十三の火曜日-申し分のない一日」から。

 みんな死のことでこんなに大騒ぎするのは、自分を自然の一部だとは思っていないからだよ
(p175)


この頃、著者ミッチ・アルボムは弟(スペインにいるという)と長い間仲違い(というかなかなか話すことができない)状態が続いていた。それをモリーに言ったわけではなかったが、なぜかモリーはこのことを聞く。

 「弟さんのところへもどる道がそのうち見つかるよ」
 どうしてわかります?
 「私を見つけたじゃないか」モリーはにっこり笑った。
(p180)


そして、モリーの死後、弟の話は現実になった…

この本の文体についても一言。モリー先生とミッチ・アルボムの対話のところを、敢えて「」抜きで書いているところと「」ついているところが混ざっていて、何かそこに時間の差があるような不思議な感覚。ひょっとしたら、これは訳者の技か?この著者自身も新聞記事始めとして、フィクション(小説とは書いてない)書いているというから、著者の技だと思うけれど…
各章の最後に字体も変えて綴られるおまけのところも結構面白く、特にp181の波の小話?は印象的だった。
(2023 07/19)

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