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「文明論としてのイスラーム」 山内昌之

角川選書  角川書店

オスマン期外交と周囲の地域


「文明論としてのイスラーム」ちょこちょこ読んでいる。もともと10年前くらいのコラムをまとめた本らしく、キルギス人質事件など自分はよく知らなかったことも取り上げられている。
最初はイスラーム圏の外交について。ムハンマドの時代から外交にもたけていたとのことですが、何故かオスマン期には使節をイスラーム圏外に置くことは18世紀頃までなかったとのこと。
中央アジアの今の国々はソ連時代に線引きされたので、地元の意識と合っていないことが多い。特にフェルガナ地方。
アルメニア人虐殺のこともあった。この間その細かな展開を読んだが、こっちはダイジェスト紹介。あとは、今のトルコの人々がそれに対してどのような立場をとっているか。
(2015 10/16)

「非存在的、昼寝適」


この本、標題にあるように「イスラーム」には限らず、いろいろな話題が入っている。
その中の東浩紀氏の「存在論的、郵便的」のデリダ論から。「その文化の「固有性」と「同一性」は別だ」という指摘。

 デリダは非同一的な固有性に注意を向けることでヨーロッパのなかに、「ヨーロッパでないもの、ヨーロッパでは一度もなかったもの、ヨーロッパでは決してないであろうものへとヨーロッパを開く」可能性を見出すようである。
(p122)


人々が普通ヨーロッパ(この地域は別にどこでもいいのだが)であると思っているものの中に、過去にも現在にもそして可能性としての未来にもそれとは違うものが混ざり合っている。こうしてできたものがヨーロッパなのだ、歴史家・地域研究はこうしたものをこそ見出さなければならない、ということだろう。東氏、あるいは山内氏が指摘する(日本ではもてはやされ過ぎだという)サイードへの批判、それから地域研究者のその地域への過剰な感情移入、なども含めこの章なかなか面白かった。
古典的外交の中心である「内政不干渉の原則」もそろそろ見直す必要がある?

それと、一番興味深かったのは、日露戦争後のアジア共栄圏みたいな考え方。孫文の中国やフィリピン・ベトナムなどへの独立・専制政治打倒に共鳴する日本人知識人がいろいろいたこと。日露戦争はロシア帝政を打倒するためにも日本が勝たなくてはならない、と考えていた人がいたこと。清朝打倒をアメリカ植民地となったばかりのフィリピンから開始すべきという案があったことなど、今の自分には知らない(知らされていない)こと多い。
アジア対ヨーロッパという図式の単純化は現在から見ると使えないけれど、それ以外ではもっと学ぶことが多いのではなかろうか。またこの動きがどんな経緯で他のどんな流れと結びついて(あるいは離れて)、「大東亜共栄圏」になってしまったのか、というテーマも面白そうだ。
というわけで、史記から新自由主義まで混交するこの本なんとか読み終えましたとさ。
(2015 10/18)

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