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「日向国山東河南の攻防 室町時代の伊東氏と島津氏」 新名一仁

みやざき文庫  鉱脈社

南九州旅。宮崎県飫肥から、霧島温泉郷の一軒宿泊まって、鹿児島県霧島神宮…そして仙巌園。
(2014 06/08)

(自分の記録には「仙巌園で購入」とあるのだが、下記の記録見ると飫肥で買ったのではないか疑惑…)


伊東さんと島津さん


結局、今回の宮崎・鹿児島旅は伊東氏と島津氏の足跡巡りみたいになった。飫肥って、最初伊東氏でそこを島津氏が奪ったのだとなんとなく思っていたのだが、逆みたい。なんか気になるので関連本買ってきてしまった。飫肥街道の本もあったけれど…さすがに行けない…

仙巌園は国道10号、日豊本線、海と狭まったところにあり、国分方面から来ると、まるで静岡の薩埵峠みたい。奥の方の大きな石が荒っぽく置いてある庭が気になったかな。
斉彬という人物にも少し興味が湧く。鎌倉時代から続く(ここもたぶん伊東氏と同じはず)武家の名門…というイメージ強いが、中世には在来の豪族や同じ関東から派遣された武士団の反乱、それから内紛もあり存続の危機にもあったようだ。
(2014 06/09)

伊東さんと島津さんの本


こないだ買った宮崎平野での伊東氏と島津氏の攻防の本を夜にちびちびやっている。古くは宮崎平野辺りのことを山東と呼んでいたそうだが… まずはまだまだ全面的攻防が始まる前。
伊東氏は伊豆の伊東が本拠(というか名前の地)で、祖先は曽我兄弟の敵役の工藤氏。島津氏の名前の地は都城でこの辺りを荘園として授かったという。まあ、どっちも鎌倉の御家人なので本家は鎌倉に。代理を置いたのがだんだん地元で力をつけ国人となっていく感じ。そして時代は鎌倉から南北朝へ… といったところまで。
(2014 06/12)

中世の一揆


「山東河南」の本の中に、一揆の書状というのが出てきた。一揆というのはもともとは結び付く、合議するとかいった意味で、ここでは誰を守護島津氏の当主にするか有力国人で一揆状を書いたという事例。
ただこの2年後に当主が亡くなるとその当主の意に反して、同じ国人達が以前からその当主に反抗していた人物(実弟)に鞍替えしている(一揆状は残ってないけど)。南北朝の頃までは当主が次の家督を譲ることが多かったが、次第にこういう事例が増えてくる。家という共同体認識が強まっていったのではと指摘する史家もいる。
(2014 06/20)

宮崎と飫肥と都城


今日で読み切り。結局15世紀半ばくらいにはこの山東河南の地は伊東家が治める。この後は、伊東氏の飫肥攻略になる。一方島津氏の方は総州家と奥州家に分れていたのをまとめて16世紀には巻き返す。という感じか。なんか宮崎と飫肥や都城って雰囲気違うのかなという気がしてたけど、ここらへんにも根がありそうだ。著者新名氏は今は宮崎きよたけ歴史館の学芸員を務めている。
(2014 06/22)

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