客観的に見た自分が好きではないということ


親しい人に言われた言葉が引っかかり、そのまま文字に起こそうと思った次第

私とふたりで写真を撮ろうよ、と誘った時、彼は嫌がった
それは“客観的に見た自分が好きになれない”という理由だった
それ自体は、受け入れる 彼が感じたことだから
でもそれは私の体験と重なるとひとつの疑問となる


長らく私は私という個人が好きではなかった
傷つきやすく繊細で、そのわり相手の傷に対しては鈍感で、感覚的に生きることしか出来ない身としては、それが苦痛だった

だけど紆余曲折あり写真に映る機会が増え、それは私の女性性とかを表したり、それ以外であったり
特に一昨年の冬に撮った写真は、私の集大成と言える
普段着の飾らない、紛うことなき私であった
そんな自分を写真に残せた時、ようやく自分は自分で居ていいのだと思えた
自分のことを手放しに好きとは言えない だけど居てもいいと思えた

冒頭の言葉に戻る
客観的に見た自分が好きではない、ということは、その人と居るときの自分が好きではないということなのでは、と思った
だから彼は私と居るときの自分が好きではないのか、と思ったら、私は彼と一緒に居る意味をわかりかねた
そんな人と一緒に居て、彼にとってほんとうによいのだろうか
わからない 知り得ないということだけが確か

相手の中にしか答えがないことには悩まないと誓ったけれど、それでも考えてしまう

あなたにとって私は恥ずべき存在ですか
居ないほうがいいですか
それなら私は潔く離れます
苦痛を伴ったとしても それが正しいのなら

苦しい でもそれは一個人の話だから
だからあなたの言葉を聞かせてほしい
それだけが唯一の答えだから


会えない夜は言葉ばかりが先走る
でもいいよ 今夜くらい

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