「もうひとつの身体」を巡る対話②
10/1(金)、10/3(日)、10/8(金)に予定している上映会のタイトル「もうひとつの身体」は、2020年6月に舞踏家の最上和子と映像作家の飯田将茂との間で、踊りと映像の関係について交わされた一連のメールの中で初めて登場しました。
この記事ではその時のメールをそのまま掲載し、「もうひとつの身体」というキーワードがいかにして生まれたのかを追いかけます。
最上からの問いかけと、それに対する飯田の応答を1回分の記事とし、全5回に渡ってお届けします。
最上和子 to 飯田将茂
2020年6月6日 12:12
飯田さん
やはり・・ 飯田さんも同じように感じていたんですね !
前回のメールで書き忘れたことがあります。
それはあの映像は踊っているときの内部感覚を捉えているように感じた、ということです。
形のない内部が外部に形として出現するときの、その境目の、あわいの、揺れ動き。
そのことに驚きました。そんなことができるのが。
撮影者が神がかり状態だったのかな(笑)
内部が外に浸み出してきている気がしました。
ナマの公演て意外に制約が多いものですよね。
座席の位置や光の加減や、さまざまなノイズなどで、よく見えないことがあります。
ただそれでもナマにおける場の生成は伝わるものですが、踊りの内部まで観れることは稀です。
大野さんほどの人材をもってしても、キャパが何百という会場になると、踊りはほとんど見えません。
近くで観たこともありますが、さほど感動はなかったのです。
花鳥風月の映像を観たとき、私は初めて大野舞踏のエキスを観たような気がしました。
映像は 踊りのエキスを取り出すことができるのだと思いました。
エキスってナマだから見えるってものじゃないのだと。
もちろんナマの価値がなくなるということではないけど、両者は別のものとして、どちらも価値があると。
ただそれはよく撮れた場合の話ですが。
ヒルコが「みるたびに違って見える」というのは私も気になってます。
私自身実際にそう感じているし、金さんもそう言ってました。
何か捉え得ないものを捉えていると、たとえ映像でもそうなるのかと、なんとなく思ってます。
そう考えると生成というのもナマでないとできない、ということはないのかと。
映画でも何回観てもいいものと、見事な出来でもすぐに飽きてしまうものとありますよね。
撮影しているときの撮影者の内面のあり方が意味を持つのかもしれません。
内部って不思議なものです。
そうそうもうひとつ。
花鳥風月で連想した映像は「裁かるるジャンヌ」でした。
どこも似ていないかもしれませんが、なぜか連想しました。
最上
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飯田将茂 to 最上和子
2020年6月8日 21:02
最上さん
「花鳥風月」は正直映像としてはあまり期待しないで見たんです。笑
記録以上のものはないだろうと決めてかかり、大野一雄さんの登場にひとまず意識を集中させていました。
映像としては丁寧に撮影されてるなあくらいに見ていたのですが、だんだんと、ちょっと待てよ、これ撮影すごくないか、、と気づいていった次第です。
これは映像制作者として可能性に勇気づけられつつ、撮影の奥深さ、あるいはそのシンプルさの深みのような部分を見たようで、けっこう動揺もしました。
編集(主にカメラの切り替え)もとてもうまいと思いました。
生成されている時間を不用意に刈り取らない鋭さと忍耐があるように思いました。
このつかむことなく、むしろつかまりにいくような撮影のあり方が踊り手の内部感覚を表出させているのかもしれませんね。
ナマであれば見る側の個々の鑑賞力に応じて接近する領域をカメラが誘導しているようなところもあります。
カメラのズームやカット割も映像の特性としてではなく、見る側の身体の拡張として連続しているのかなとも思います。
踊りのエキスを取り出す。
これこそ映像にしかできないこと、映像化の意義なのかもしれません。
僕にとって「見たい」と「捉えたい」はほぼ同義です。
それは基本的に見えているものから見えないものを捉えたい、ということです。
モノとして存在しえない映像は、本質的に捉えることでしか在り得ないところがあります。
以前に海で泡を撮影しているときに金さんにハンターみたいと言われましたが、これはおそらく性ですね。
ハンター、あるいは採集者。撮影者は狩猟採集民族です。
そして何かを捉えようとしていると、逆に捉えられてしまうことがあります。ミイラ取りがミイラになる感じです。
どこかでそうなることを期待しているところがあり、撮っていてもっとも興奮する瞬間はこのあたりかもしれません。
もしかしたらそういう冷静な撮影者ではいられないときに撮影者の内部が問われるのかも。
とりわけ映像はそれがレンズ越しの対峙であって、撮影時においてもどこか直接性を逸らしているようなところがあります。
見ることと、見られることの関係がレンズを介することで少しズレるというか。
これが映像化によるエキスの抽出や、見えない部分の表出に絡んでいるような気がします。
「裁かるるジャンヌ」における顔のアップも、ナマでそれを見るほど直接的じゃない分、この特別な拮抗と表情の細部の描写とが人物の内面へと見る人を招き入れるのかもしれません。
だんだん撮りたくなっちゃいますね。笑
その前にこれまで撮った映像をもう一度見返したくもなりました。
撮るとしたらぜひまた最上さんにお願いしたいです。
doubleは発表できてないし、死者の書もあるのでタイミング難しいですが。
あと金さん、あんりさんにも声かけたいな。
近藤さんも舞踏を撮る方法みたいなことをTwitterでつぶやいていたから、ちょっと話してみたい気がします。
まずはこのメンバーで飲んで色々話すのも楽しそうですね。
飯田
「もうひとつの身体」を巡る対話③ へつづく
※※メール交換の中で盛んに言及されている「花鳥風月」という動画はこちらからご覧いただけます。
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「もうひとつの身体」
ドーム映像作品『HIRUKO』『double』上映会+トークショー
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プラネタリウムの静謐な暗闇の中で、最上和子を主演とした舞踏による儀礼空間へと誘う新しい映像体験です。
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