見出し画像

「もうひとつの身体」を巡る対話④

10/1(金)、10/3(日)、10/8(金)に予定している上映会のタイトル「もうひとつの身体」は、2020年6月に舞踏家の最上和子と映像作家の飯田将茂との間で、踊りと映像の関係について交わされた一連のメールの中で初めて登場しました。
この記事ではその時のメールをそのまま掲載し、「もうひとつの身体」というキーワードがいかにして生まれたのかを追いかけます。
最上からの問いかけと、それに対する飯田の応答を1回分の記事とし、全5回に渡ってお届けします。

最上和子 to 飯田将茂
2020年6月21日 6:38

飯田さん

私もちょうど飯田さんにメールしようと思っていたら、飯田さんからメールが来たのでちょっと驚きました。
私も再度「花鳥風月」を見たんです。

あの映像の亡霊のような感じはどこからきているのかと思ってました。
ひとつにはバックが闇であること。でもそれだけではないような気がしました。
飯田さんの「カメラが常に動いている」という指摘であっと思いました。
人物の輪郭が不安定で揺れ動いているんですよね。
実際の大野さんはどちらかというと動きが硬く、あまり亡霊感はないんですよ。
私から見ると人間くさいというか、現実的な感じがします。
だからあの映像を見た時に、実際の大野さんと随分違うなと思いました。
実際の踊りが少しズレているんですよね。
それが撮影者の意図だったのかどうかはわかりませんが、たいしたものです。
実際の踊りとは別のまさに「もう一つの身体」です。
だから偽物というのではなく、それも身体そのものなのかと。なぜなら、
あの不安定な亡霊のような姿は踊りの内的世界に近いからです。
内的世界そのものは形がないので、そのままは映しとることはできないでしょう。

例えばゴッホの絵のような、セザンヌのような、エゴン・シーレのような世界は、踊りの状態にある時に体験するものです。
それを絵として定着させたもののように私には見えます。
そしていい絵は、固定させているにもかかわらず、絶えずキャンバスの中で生成している。
正確に言うと、キャンバスと観客のあいだで生成するのかな。

ちょうどツイッターで流さんの写真の話が出ましたが、流さんの写真には意外なものが写ってしまっていることがあります。
それがずっと私には不思議でしたが、やっとその理由がわかりました。
肉眼では見えないものが、流さんの瞬間を捉える力で出現してしまうのだなと。
だからそこに水が出現するのは、実際の踊りの中で水という元素的なものが、確かに出現しているのだろうと。
それは現象としての水とは違う、もっと水であるものではないか(ここのところはヌース的です)

飯田さんが絵画や彫刻に嫉妬しているって意外です。
私からすると絵画や彫刻の大半はつまらないんです。
それは「冷えた表現」だと感じられるんです。生成という沸騰が冷えて固まったもの。
芸術であるという権威付けがなければ、あまり魅力がない気がしています。
どうでもいいとは思わないけど。
でも映像をしている人って、その歴史の浅さや電気を使っているという不安定さに、劣等感を持ちがちなのかな。
押井監督も電気がなかったら映像は成り立たないので、これはたいしたものではない。みたいなことを言っていて、私はびっくりしたことがあります。当事者の気持とはそういうものなのかもしれません。
不安定だからこそ生成に近い、とは言えませんか? 歴史が浅いのは舞踏はさらに、です(笑)

金さんと話したことがあるんですが、
世にあるたいていの表現ジャンルや言説の世界は、身体があれば必要ない。
身体がないから遠回りして手間をかけて置き換えをしている。
金さんは読書家で理屈屋だっのが、舞踏するようになって、文章が読めなくなった。
活字を追うこと自体ができなくなったと。私も同じなので、それをきいてとても嬉しかった。
はじめて同じ立場の人に出会えました。
それまではそのことを口にすると言語世界の人に睨まれる(笑)ので、いつも黙っていたんですよ。

身体を気にする人は様々な困難に出会いますが、そこに可能性もあるのだと思います。
まあメジャーにはなれませんが。ははは

飯田さんからメールを受け取る前の私のメール、煩雑になりますがそのままコピーして送ります。

最上
-----------------------------
しばらくおいてから再度「花鳥風月」を見ての感想です。
ただ読んでいただければいいので返信は不要です。

この映像はまず最初に、踊り手を亡霊のように撮るという選択をしたことが大きいと思います。
(実際に肉眼で見ると、大野さんはそれほど亡霊っぽくはないです)
選択肢はいろいろあったはずなので、この選択をしたことが、制作者の舞踏理解の深さを示している。
それからカメラを1台でなく何台か使っていますよね。
上から撮る、横から撮る、遠くから、近くから、斜め背後から・・ 
カメラが多ければ多いほど編集の可能性は広がり、それはふつうに映画を撮る時の方法です。
たいていの場合、この可能性の大きさに映像は快楽を覚えて、カット割りが安易になってしまうことが、映像表現のインフレをおこしているのだと思います。
「花鳥風月」の場合は、この映像の特権を採用しながら、インフレを起こさない、ぎりぎりの視点を維持していることで、映像の力を発揮していると感じました。

踊り手の内面には様々なことが起こっていて、例えば、地の下に落ちることもあれば、天にまで届くこともある。
でもそれは見ている人の肉眼では捉えられず、見る人にとっては、そこにただの人間がいるだけでしょう。
映像はその限界を超えていく。
もともと映像はそういうものであったのに、途中からインフレになってしまった。
映像に限らず、絵画でも音楽でも、表現はすべてそういうもので、
道具を手にすることで世界切り開いていたものが、途中からふわふわひらひらした、根拠の希薄な想像力の世界になってしまった。

原点に身体と踊りはあるでしょうが、それが世界のなかで生きるのには道具は力が大きい。
世界のなかで生きなくてはその存在の意味の大半は失われる。
世界とは、展開し拡張しそして回帰する、その運動なのだと。
踊りもまた自己完結するものではないのだな、と思うようになりました。
*******

飯田将茂 to 最上和子
2020年6月22日 15:41

最上さん
最上さんも花鳥風月また見てたんですね。驚きました!タイミングも。
送ろうとされていたメールの前半が自分が書いたんじゃないかと思うくらい僕の印象と近くてさらに驚きました。
カメラの多さは編集時に飽きさせないための材料として使われることがしばしばですね。
映像表現快楽のインフレの時代は飽きられることに怯える時代でもあります。
映像業界が独自発展させた観念とは全く違った次元で、それはおそらく踊り手の内部世界への接近というベクトルで流れを捉える必要がありそうです。
この決定的な違いは見過ごされがちで、結果として撮る側は自分のフィールドの快楽に浸り、踊り手は内容に幻滅し映像を諦めてしまう。
昨日たまたま田中泯さんのtwitter botが「踊りはライブでしか語ることはできないです。絶対に映像にならないです。」と発していましたが、そうした断定が今まで以上に寂しく思えました。

異種格闘技な美術の世界では、絵画や彫刻とともに映像が平然と並ぶこともしばしばで、そのモノとしての存在感の差に僕は必要以上に悩んでいたように思います。
映画やテレビの文脈に入り込めばそんな批判も生まれませんが、明るいフラットな空間に放り出される恐怖というのは媒体の物質性を意識するほど映像について回るものです。
ちなみに修了論文のテーマは「映像表現における絵画性」でしたね。どんだけコンプレックス、笑
この経験は今の自分の問題意識や表現の形成に大きく関わっていると思います。
だからドームじゃなきゃダメだと思い、ドームのスペクタクル性よりもアウラの出現に期待しました。
いまは「HIRUKO」「double」の経験と「花鳥風月」やこの一連のメールによるいくつもの発見により、「生成」という次の段階に映像制作の意識が向き始めています。
ただ、そこまで気づいていても「不安定だからこそ生成に近い」という指摘は目から鱗でした。

そういえば以前に最上さんがセザンヌの絵画が良い、と言われてた時に妙に納得したのを覚えています。
ゴッホやシーレは比較的わかりやすい(それゆえにわかりづらい)ところがありますが、セザンヌの絵画を見たときに僕が感じていたゾクゾク感は良い踊りを見たときの感覚に似ています。
先の修了論文では絵画と映像とがモノとして同じ土俵に乗らない点をもとに、時間を切り口として絵画鑑賞時(キャンバスと観客の間)の時間と映像の時間とを比較して論じていました。
今ならそこに「生成」というキーワードを与えてもう少しマシな文章が書けたように思います。

「もう一つの身体」は僕にとって大きなテーマとなりそうです。
踊りを見るだけじゃ済まない、という自分の中の衝動が踊るという直接性とは別に映像に注がれていくのを改めて感じました。
だれしもが当たり前のように身体を持ちながら、身体がないということに(あるいは無意識的に気づいて)もがいている。
この喪失がマジョリティの側にあって、無自覚なのは改めて考えるとすごいことですね。
身体がない時代に、おそらくその原因を大きく担った映像という媒体によってこれを追求する、ということにも何か意味があるのかもしれません。
身体がない、は生成がない、ともいえるのかな。ふっと頭に浮かんだのが、祝祭性がない、ということ。
あらゆる媒体が道具としての間接性に表現を定着させてきましたが、今の時代に殊に生成を捉えるという点では映像に優位性がありそうです。
映像は映像でモンタージュの発明以降発展した映画史の強固な文法と快楽がありますが、歴史が100年そこそこと浅い分巻き戻しやすいということもあるのかもしれません。
生成に目を向けることは身体が道具を初めてつかんだ時の動機にも迫れそうな気がします。
「もう一つの身体」とはもともとあらゆる道具を使って目指された表現の原点といえるものかもしれませんね。

飯田

「もうひとつの身体」を巡る対話⑤へつづく

※※メール交換の中で盛んに言及されている「花鳥風月」という動画はこちらからご覧いただけます

ギャラクシティ主催 アーティスト支援プログラム
「もうひとつの身体」
ドーム映像作品『HIRUKO』『double』上映会+トークショー
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
プラネタリウムの静謐な暗闇の中で、最上和子を主演とした舞踏による儀礼空間へと誘う新しい映像体験です。
ギャラクシティにてご予約受付中 イベント詳細
【電話】03-5242-8161 ※9:00 - 20:00(休館日除く)
公式ページ 公式ツイッター

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?