望郷の宇久島讃歌(10)

第1章 望郷の宇久島

●チッチッ(ホオジロ)

宇久島の鳥たち――雉

島には春が巡って来ると、様々な種類の鳥達が巣を作り、卵を産み・孵化し、雛を育てる。ここで、島で良く見かけた鳥たちの巣や卵や雛などについて、子供の頃の記憶を頼りに紹介しよう。

雉は、宇久島の代表的な鳥のひとつだが、その巣は、麦畑や松林の中などに地面を浅く掘り、わずかばかりの落ち葉や枯草などに加え自からの羽毛を敷いた実に簡単なものである。その恵まれた端正な姿や虹色をした鮮やかな羽の色などから判断して、雉はそれにふさわしい、手の込んだ巣をつくるのではないかと思いがちだが、実は手抜きにも等しい、お粗末なものである。それは、あたかも、美人でおしゃれな御夫人が、自分の家の家事をおろそかにするのと似ているような気がする。

 雉は、その簡単な巣に1ダースほどの卵を産む。鶏の卵よりやや小ぶりで、色も巣の色に似て少し茶色っぽい。今なら、動物愛護団体などの方々にお叱りを受けるかも知れないが、貧しい島民にとっては、雉の卵は美味しい御馳走だった。
 
島では、端午の節句が過ぎるころ麦刈りの時期を迎えるが、雉はその時分に雛が孵る。私が子供の頃は、畑や松林で、メスの雉が、一ダースほどの雛を従えて歩いているのをみかけたものだ。雉の雛は鶏の雛に似ていて、柔らかい羽毛は薄茶色をベースに黒い毛が混じっている。  

私は、何度か雉の雛を捕まえたことがある。雉の雛は、「ピヨ・ピヨ」と鳴く鶏の雛の鳴き声に似ているがやや甲高い。畑や松林の中から聞こえてくる雉の雛の鳴き声を頼りに近づくと、声はぱたりと止む。人の気配がすると雉の雛は、草むらなどに隠れて微動だにしないので、中々見つけるのは難しい。雛がいる近くにはメスの親雉がいて、「クッ、クッ」と鳴きながら、羽根を広げて傷ついたふりをして、人間の注意を雛から逸らそうとする。だが母鳥のそんな振舞は、雛がそのあたりに隠れているという証拠だ。目を地面に近づけて探せば、見つけ出すことができる。

私は、何度か雉の雛を捕まえ飼ってみたが、一度も成功しなかった。多分、夜間に気温が低下し、低体温症で亡くなったものと思われる。自然状態の雛は、夜間は母鳥の羽の下にかくまわれてぬくぬくと過ごすことができ、寒気による低体温症で死ぬことはない。また、少年の私には餌についての知識もなかった。
 
雉の雛が死ぬと、私は子供ながらに「母鳥から雛を奪い、結果として殺してしまった」という罪悪感にとらわれた。雛を失うたびに、その遺骸を自宅の庭に小さい穴を掘って埋めてやり、その上に形の良い小石を墓石として置き、花を手向けたものだ。子供の私だが、雛の命の尊厳はよく分かっていたつもりだ。
 
当時、島には11月から3月の狩猟解禁期には、大勢のアメリカ人――在日駐留米軍人が主体――が佐世保からポインターやセッターなどの猟犬を連れて、客船に乗って雉猟にやった来ていた。恐らく、毎年、1万羽近い数の雉が散弾銃の〝犠牲〟となって命を散らせたことだろう。

その〝穴埋め〟として、毎年1万羽近い雛が生まれていたことだろう。雉のメスは、一度に一ダースほどの雛を孵化する。このことを勘案すれば、島全体で千羽ほどのメスが産卵し抱卵・孵化していたことが推理できる。宇久島の雉は、そうやって営々と宇久島の「島鳥」の座をけなげに守り続けてきたのだろう。
 
その「島鳥」に異変が起こっていた。一昨年(2022年)5月中旬に数日間にわたり久しぶりに宇久島に里帰りする機会を得た。驚いたことに島の景色が激変していた。島から人口流出、特に農業従事者の激減により、段々畑が耕作放棄されたために、島の殆どがタブノキ、スダジイ、トベラ、センダン、ヤブツバキなどの照葉樹林で覆い尽くされていた。
 
このことにより、雉の生活に好適な環境――田畑と松林のバランス良い配置――が失われていた。雉にとっての災難はこれだけに止まらない。海を泳いで渡来したイノシシが大増殖し、雉の卵や雛が犠牲となっているようだ。島に滞在している間、雉の鳴き声を一度も聞くことができず、その姿を見かけることもなかった。宇久島は、もはや「雉の島」ではなくなっていた。
 
今や、「雉の島」は問題山積だ。島は日本最大のメガソーラー建設のために大勢の業者が来ており、賑わっていた。メガソーラー建設は島の約4分の1を占める桁外れの規模である。メガソーラーで覆われた島の未来の姿を「のり弁」状態と揶揄する島民もいた。これに対して島民は賛成派と反対派に分かれて揉めているようだ

宇久島の鳥たち――カラス、鳶、ヒバリ

カラスは、神社の境内などの松や杉の木の相当高い梢に巣を作っていた。この巣は、周囲を丈夫な枯れ枝で編み、内側は保温効果のある柔らかい枯草や羽毛あるいは牛の尻尾の長い毛などが敷き詰められていた。カラスはこの巣の中に、薄い青緑色の卵を3~4個産む。

島では、カラスの卵は脳病に効き、頭が良くなると言われていた。しかし、日頃からカラスが蛇や蛙をつついたり、猫や犬の屍骸を食べているのを目のあたりにしている島の子供達は、例え自分の頭が悪いと自覚している者でも、カラスの卵を食べるだけの勇気は無かった。
 
人が卵や雛がいるカラスの巣に近づこうものなら、番(つがい)のカラスのみならず、中間のカラスが集まって、人を攻撃した。だから私はカラスの巣には余り近づかなかった。

鳶は、海岸沿いの崖にしがみついている老松や岩場など人間が簡単に近付きにくい場所で営巣する。子供達は、村の大人達から「トンビは恐ろしか鳥じゃけん、巣のあるところには行くなよ」と常々注意されていた。大人達の話によれば、鳶は人間が巣を盗りに行くと、巣の主たる番(つがい)のみならず、警報を聞きつけた他の鳶達が何羽も応援に飛来し、盗人の頭上を戦闘機群さながらに旋回しつつ威嚇し、次々に急降下して、爪で一撃を加えて来るということだった。そして、盗人の中には、この急降下攻撃により、崖から転落して大けがをした者もいたと聞いた。こんな訳で、私も鳶の卵は見たことがない。

次は雲雀だ。洋の東西を問わず、雲雀をテーマにした詩や歌は多いようだ。青天井の高みから「天使の祝福の声もかくの如しや」と、人の想像をたくましくさせる鳥である。暗く寒い冬が過ぎて、待ちかねた春の到来を告げ知らせる雲雀の声が人の詩情をかき立てるのはけだし当然だろう。
 
 宇久島では、春が巡り来ると、沢山の雲雀が天に舞いながら野良仕事に励む島民達に終日BGM(バック・グランド・ミュージック)を流してくれた。

雲雀は、畑の中の麦や空豆や大豆の根元に野球ボール大の穴を掘り、枯れ草を編み敷いて、上品な巣を作る。卵はホオジロのそれとほぼ同じだったと思う。表面には、薄茶色の草の根模様のカモフラージュが描かれている。
 
 島では、雲雀の卵や雛を盗ると、その盗人が飼っている牛が死ぬという「言い伝え」があった。宇久島では、牛は大変重要な家畜であり、農耕の為の動力として使うだけでなく、五島牛の名で有名な肉牛としても高値で売れ、貴重な現金収入源ともなっていた。従って牛を失うことは大変な損失であるのは事実だった。
 
 けだし、農薬が乏しかった時代の昔の島民達にとって、畑の害虫を子育てのために沢山食べてくれる雲雀は、まさに「救世鳥」だったに違いない。島民達は、この「救世鳥」を保護するために、このような「言い伝え」を創作したのかもしれない。
 
ホオジロの巣・卵・雛

私の故郷宇久島では、ホオジロのことを「チッチッ」と呼んだ。この呼び名は、ホオジロの鳴き声に由来するものであろう。頬白は、秋から冬にかけては島の松林や畑の周りの藪の中で、「チッチッ」と地味だが可愛い声で鳴いている。ところが、春から夏にかけての繁殖の時期になると、雄は松の木の梢などの目立つ場所に登場し、美声を張り上げて歌う。「『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』と歌うとるとたい」と父がよく言ったものだ。後年調べてみると、この手紙の一文は徳川家家臣の本多重次が長篠の戦い(1575年)の陣中から妻にあてたもので、日本一短い手紙として有名らしい。

 島で、最も簡単に見つけることが出来たのがホオジロの巣だった。頬白は、3月末から4月にかけて巣作りを始める。松林や麦畑の周りの藪の中などに雲雀と同じほどの可愛い巣を作る。巣は、周りをやや太い草の茎などで骨組みし、内側に向かうに従って草の毛根や羽毛などの繊細な材料を綿密に編み上げており、まるで芸術品である。この巣は、見た目が良いだけでなく、正倉院の校倉造りにも似た原理で、調温・調湿が出来るようになっており、卵を孵化し、雛を育てるのに必要かつ十分な機能が備わっている。

 たぶん、あの瀬戸大橋や東京タワーをも造ることができる現代の土木建築技術を持ってしても、人間はホオジロの巣を作れるかどうか疑問だ。
 そんな見事な巣を二羽の「無学な」小鳥が1週間ほどで作りあげるのだから、何という不思議な技なのであろう。


ホオジロの卵は雲雀とほぼ同じ大きさで、4~5個を産む。その殻は、薄茶色の生地に比較的濃い赤茶色の草の根模様のデザインがプリントされており、一定のカモフラージュの役割があるものと思われる。

 梅雨の頃になると、孵化を間近に控えて、二匹の親鳥は、交代で懸命に卵を抱く。実は、この時期が、頬白の巣を見つける絶好のチャンスなのだ。
私は、学校から帰ると、我が家の玄関に鞄を放り投げ、一目散に野や畑に向かい、頬白の巣を探したものだ。

梅雨に濡れそぼり、靴を泥だらけにして、麦畑の周りや松林の中を歩き回っていると、突然「ブルル」と小さな羽音とともにやぶや木立の中から頬白の親鳥が飛び出す。頬白の巣は、まさに親鳥が飛び出した場所にあるのだ。

 抱卵中のホオジロは、人が近付いて来てもなかなか逃げずにじっと我慢して卵を温めている。が、いよいよ巣の間近まで迫って手が届く距離まで来ると、ついに巣から飛び出してしまう。しかし、さすがは親鳥、遠くへ逃げて行くと思いきや、恐ろしさをこらえつつ、巣から4~5メートルの所に留まって「チッ、チッ」と鳴きながら、私を心配そうに見つめている。「どうかお願いだから、巣や卵を盗らないで」訴えているかのようだ。

 巣の中に手を入れてみると、乾いて温かい。親鳥の卵に対する愛情が、「温もり」と化して私の手に伝わって来た。
「巣は盗らんけん、安心せんね。早く雛を孵して、僕の養子に欲しかとよ」と心の中でホオシロに語りかけた。

 巣を見つけた翌日からは、ホオジロの生態と巣を間近に観察できる嬉しさに足取りも軽く日参したものだった。日々巣の中に卵が産み落とされ、4~5個まで増えていく。そして、親鳥は来る日も来る日も梅雨に濡れそぼりながら忍耐強く卵を抱き、「温もり」という愛情を注ぎ続ける。

 梅雨が明けたある日、いつもの通り巣を覗きに行ってみると、なんと雛が孵化しているではないか。

孵化した直後、雛はほとんど鳥の体をなしてない。ほとんど裸ん坊で、わずかに綿よりも細い産毛が頭のてっぺんと羽の一部に申し訳程度に生えていて、体全体が赤っぽく、細い血管が全体に浮き出て見える。注意深く手に取ってみると、頭とお腹が異常に大きくグロテスクだ。例えは良くないが、栄養失調の子供のようだった。アフリカなどの飢饉で飢えた可哀想な子供達の映像を見るたびに、不謹慎かもしれないが、生まれたてのホオジロの雛の姿を思い出してしまう。

 目が開いていない生まれたての雛たちは、人の気配を親鳥と勘違いして、体とは不釣り合いなほどの大きな黄色い嘴をいっぱいに開けて「チー、チー」鳴いて餌をねだる。

 二匹の親鳥が、心配そうにすぐ近くまで寄って来る。そのうちの一羽は、嘴に虫を銜えており「食べ盛りの子供達が首を長くして待っているんだから、早くどいてくれよ。子育ての邪魔をしないでくれよ」と訴えているかのようだった。

 この時期になると、私は、学校の授業中も上の空で、ホオジロの雛のことばかり考えていた。誰かに知れると、盗まれるかもしれないので、絶対に秘密だった。学校から帰ると、雛たちに会いに、一目散に野や畑に急ぐのが日課となった。

 雛たちは、スクスクと育っていく。裸ん坊達もだんだん羽が生えそろってくる。4~5匹の雛が育って大きくなってくると、小さな巣から体一部がはみだし始める。また、初めのうちは、無分別に私(人間)に対しても餌をねだっていた雛達も、だんだん「人見知り」するようになる。野生の本能が芽生え、自分が頬白であることを自覚し始めた証拠だ。

 私が、いつものように、巣に近づいていくと、もはや餌をねだることもなく、警戒心の宿った澄んだ瞳をこちらに集中させ、皆頭を低くして巣の中央を向き、「頭隠して尻隠さず」の格好でうずくまっている。

 このように「人見知り」する頃になると、もう巣立ちは近い。

 様々な巣立ちの様子を目撃した。ある時は巣を訪ねてみると、空の巣が残されているだけで、既に巣立ちして、近くの木の上で雛達が鳴いていた事もあった。また、ある時は、私が巣の側まで行くと、突然雛達が一斉に巣から飛び出して逃げてしまったこともあった。もうすっかり成長していて、巣立ちタイミングを計っていたところに、私が来合わせたものだったのだろう。

 ホオジロの雛を「養子」に迎える時期は、雛の成長を見ながら慎重にタイミングを計る必要がある。出来るだけ大きく成長するまで、親の力で育ててもらいたいが、前にも述べたように、あまり成長しすぎると野生の本能が芽生え、人の手から餌を食べなくなってしまう。

チッチッの雛の飼育そして悲しい別れ

あれこれとタイミングを計りながら、ある日ついに雛達を巣ごと藪の中から取り出して、我が家に持ち帰ろうとする。すると、どこからともなくすぐに両親が飛んで来て「チッ、チッ、チッ」と鳴き騒ぐ。「人攫い」に対し、「私たちの子供を攫っていかないで!」と哀願しているようで、私もいささか申し訳ないと思った。私が雛達を胸に抱くようにして帰路に着くと、しばらくは追ってきたが、遂にあきらめたのか、二匹の親は見えなくなった。

 我が家に帰ると、巣がすっぽり入る空のマッチの徳用箱の中に入れ、雛の上には、真綿の掛け布団をかけて暖かくしてやった。

 親鳥の観察から得た知識で、餌は、我が家の菜園のキャベツからモンシロチョウの幼虫・青虫やキリギリスの幼虫などを獲ってきて与えた。雛達は食欲旺盛だった。実によく食べた。食べると言うより、正確には、丸飲みにする。

 私が雛達に頬を近寄せ、口を尖らせて「チュー、チュー」と呼びかけると、「チー、チー」と大騒ぎしてチューリップの花が咲いたように黄色い嘴をいっぱいに開けて、餌をねだる。青虫を与えると、自らの体に比べ不釣り合いなほど大きな餌を、むさぼるように頬張り、必死で飲み込もうとする。食道の中に、嚥下しようとする青虫が薄い首の皮を透して見える。大きな青虫は、スムーズには喉を通らず、雛達は食事の度に目を白黒させて「ヒック、ヒック」を繰り返した。

 お腹がくちくなると、チューリップの花も閉じて静かになり、親の無い兄弟達は、互いにもたれ合い、くっつき合って夢を見る。

 時々、お尻を巣の外に突き出して、「プリッ」と水っぽく白と薄茶色の混ざった体の割には大きな糞をする。青虫やキリギリスの幼虫などばかり食べさせているせいか、幾分青臭かった。成鳥の頬白は細目の蕎麦くらいの太さの糞だが、雛のそれはうどん程もの太さだ。人間の赤ちゃんは、大人からオシメを換えてもらわなければならないが、ホオジロの雛達は誰も躾ないのに自ら巣の外に糞を排出し、巣を汚すこともなかった。

 夜は、猫やネズミにやられないように、あるいは、親鳥に代わって暖めてやろうと、私は雛達を自分の布団の中に入れようとしたが、母から「たかちゃんは寝相の悪かけん、踏み潰すばい」と諌められたので止めた。そして、あれこれ考えたあげく、密閉された戸棚の中に入れてやった。

朝、目覚めると何はさておきすぐに戸棚を開けて雛の様子を見た。「おい、元気か?」と声をかけると、「チー、チー」と応じ、例のごとく一斉に口をいっぱい開き餌をねだる。その時は本当に嬉しかった。本当の自分の子供のように、だんだん愛情が湧いてきた。私はすぐに朝食の準備をした。餌の青虫は、前日捕って来てキャベツの葉を与えて飼っていたものだった。

勿論、学校に行く時は、雛達を大切に鞄に入れて連れて行った。クラスの友達に雛を自慢した。友達が羨ましそうに「みじょかね(可愛いね)」とか「俺にも育て方ば教えてくれんね」とか言われると、ついつい得意になったものだった。

授業中は、先生に見つからないように机の中に入れておいた。休み時間に餌をたらふく与えておいて、授業中は静かに眠るように言い含めておいた。
が、時々寝ぼけた一羽が、机の中で「チー」とくぐもった小声で寝言を言うと、他の雛も「チーチー」と騒ぎ出す始末。

私は、先生に感づかれないように、そっと机の中に手を入れて、雛達の頭を撫でてやると再び静かになる。先生も、ふと黒板に字を書く手を止め振り返ったが、再び黒板に向かった。「よかった、気づかれずに済んだ。」胸を撫で下ろした。事情を知っている周りの子供達の中には、「クッ、クッ」と忍び笑いする者もいた。

今にして思えば、当時の小学校の先生方は、本当は雛達の声に気付いていたにもかかわらず、素知らぬ振りをしてくれていたのかもしれない。

かくして、雛は日々成長していくかに思えた。が、ある朝目を覚まして、いつものように戸棚を開けて「チュー」と声をかけて見ると、「ああ、何たること」全部の雛が冷たく、石のように硬直しているではないか。

一羽、一羽を巣から取り出して、手のひらで包み、唇を寄せて暖かい息を吹きかけてやってもピクリともしない。何度も何度も撫でてやったが、ホオジロの雛達は遂に蘇らなかった。

「たいへんな事をしてしまった。親鳥に申し訳がない」と思った。雛達の冷たい死骸を抱いて、元気だった姿を思い出すうちに、悲しさがこみあげ、涙があふれ出てきた。

 雛達の骸を巣ごと庭に持ち出して、柿の木の下に穴を掘り埋葬してやった。その上に墓標のつもりで小石を置いた。時々、山百合や野アザミの花を摘んできて供えた。その度に「本当に可哀想なことをした」と何度も悔やんだ。

このように、ホオジロの雛の飼育を試みる度に楽しい思い出と、悲しい思い出を積み重ねた。今こうして、当時の思い出を書いていると、不思議な事に死んでしまったはずのホオジロの雛達は、今も私の心の中に生き生きと息づいている事に気が付いた。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?