望郷の宇久島讃歌(14)

第1章 望郷の宇久島

●砕氷船ごっこ

村の子供たちは、潮が引いた後の砂浜で遊ぶ機会が多かった。砂浜のキャンバスに棒切れで思いっきり巨大な字を書いたり、絵を描いたりした。また、砂のボールを沢山用意して〝雪合戦〟に興じることもあった。砂のお城や山を波打ち際こしらえ、潮が満ちてくる頃には、それが波から削り取られられるのを補強して城や山を護る〝お城を波から守る作戦〟遊びをしたこともある。

あれは、春うららかな4月下旬頃のことだったろうか。私は同じ村に住む2歳年上の櫻木勝則兄ちゃんと二人で、砂浜を南極の氷原に見立てて砕氷船遊びに興じた

「オーイ、僕のオビ号が氷で閉じ込められたたかちゃんの宗谷を助けるからな」

櫻木辰則少年はオビ号に見立てた船の形に似た石を、砂に埋まっている私の石の船宗谷の周りを手で押して「砂の氷原」を掻き分けた後、今度は舳先に回って先導して私の宗谷を救出してくれたものだ

後になって知ったことだが、厚い氷群で立ち往生していた日本の南極観測船の宗谷がソ連の砕氷船のオビ号の救援を受け、2週間ぶりに随伴船が待つ外洋へ脱出することに成功したのは1957年2月のことだった。

宗谷は砕氷能力が不十分だったのかその翌58年2月にも昭和基地に向かう途中で氷に閉じ込められて立ち往生となり、今度はアメリカの砕氷船のバートンアイランド号の救援を受け、外洋に脱出できた。その年は悪天候のため第2次越冬計画を断念し、樺太犬(15頭)を遺棄するという悲しい事態となった。翌年この犬達のうち、タロとジロが生きて発見され、国民の感動を呼んだ訳だ。

私は、当時こんなニュースを知る由もなかったが、櫻木少年が潮の引いた砂浜で教えてくれる「砕氷船遊び」に夢中になっていた。

「今度は、バートンアイランド号が宗谷を救援するからな」

櫻木少年は、もう一つの石の船を持ってきて、氷原に見立てた砂浜に航跡を描きながら私の石の宗谷に接近して来た。彼は、リアルにバートンアイランド号の砕氷の様子を教えながら石を巧みに動かして見せた。彼は石の船を砂の上で動かしながらさらに説明を加えた。

「バートンアイランド号は、砕氷が進まない場合は、一旦後退して、また全速力で加速して、氷にぶつかり氷を砕くんだ。それでも駄目な時は、再び後退して加速・前進して、氷の上に乗り上げ――座礁し――氷に数千トンの船体の重みを利用して氷を砕くんだ。それでも氷が割れない場合は、進む方向の氷に何本もの穴を開け、その中にダイナマイトを埋め込み、これを一斉に爆発させて亀裂を作って砕氷をし易くする方法もあるんだ。」

当時、私は4年生で櫻木君は6年生だったろうか。櫻木少年は何処でそんな知識を仕入れたのかわからないが、五島列島の僻地の少年は知り得ないような世界のニュースを細々と知っていた

櫻木少年は頭が良く、記憶力が抜群で、学校の成績も良かった。村の少年達の間では学校の勉強については、滅多に口にしなかったが、櫻木少年は、時々、算数や理科について私の知識を試した。

「たかちゃん、食物が人間の体を通り抜ける順序を言うてみろ?」
「うん。口、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門の順たい」
「オオ、ヨー知っちょるね」
櫻木少年と私は2歳違うが、他の村の少年達との間には無いある共通点――好奇心が旺盛で勉強好き――があり、互いに尊敬する気持ちを持っていた。

彼は、砕氷船遊びをする半年くらい前、村の櫻木家に後妻として嫁いで来た御母さんと一緒に私の村にやって来たのだった。亡くなったお父さんは朝鮮人だったという噂を聞いたことがある。朝鮮人と聞いて、初めは興味本位に、自分達日本人と何か変わったところが無いか注目していたが、頭が良い事を除いては我々と何も変わらない少年だった。頭が良いことに加え、手も器用だった。櫻木少年は、魚を入れるトロ箱に、丸太を輪切りにした車輪を取り付けてミニ自動車を作ってみせた。また、島でもようやく流行し始めた自転車の分解や修理などはお手の物だった。

村で子供達の兄貴分で、櫻木少年より一つ年上の梅田の兄ちゃんが、ある時ブッキラボウに村の子供達の前で問いただした。

「カツノリ、お前の死んだ父ちゃんの名前は、何と言いおったとね?」

櫻木少年は、一瞬沈黙したが、やがて小声で父の名前を口にした。
彼は、「ソーマン」とだけ答え、目を伏せた。
私は、子供心にも、彼の心情が痛い程分かるような気がした。
彼は、中学を卒業すると、高校へも行けず、名古屋の鉄工所に集団就職するため、静かに島を去った。お金さえあれば大学など楽々優秀な成績で卒業できたろうに。
私も、2年後には、高校進学のために島を離れた。以来、カツノリ兄ちゃんの消息は絶えてしまった。


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