望郷の宇久島讃歌(4)

第1章 望郷の宇久島

●今村均将軍
前編の「鐘の鳴る丘」で書いたように、私がこの世に生を享けて最初に聞き覚え、歌ったのが「とんがり帽子」(菊田一夫作詞・古関裕而作曲)という歌だった。この歌は、私が生まれる直前の昭和22年7月5日から昭和25年12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌だった。

 この「鐘の鳴る丘」というラジオドラマはフィクションであり、空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里の丘の上にある共同生活の施設――「俺らの家」――で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描いている。「俺らの家」には、とんがり帽子の時計台に鐘を備えたものだった。敗戦直後で、日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの日本国民の共感を呼び、大ヒットとなり、放送回数は600回に及んだ。

 「鐘の鳴る丘」というラジオドラマはフィクションであるが、この話に酷似した〝実話(ファクト)〟があるという。その話は、2021年秋頃、防衛大学校同期生の椛澤均君(株式会社日本テクノ社長)から聞いた。それによれば、群馬県の前橋市にある椛澤君の実家の近くに、青少年養護施設の「鐘の鳴る丘少年の家」(群馬県前橋市堀越町)という施設があるというのだ。椛澤君は「鐘の鳴る丘少年の家」の設立経緯などをメールで次のようにしてくれた。
 
 「『鐘の鳴る丘少年の家』は、自らも復員兵であった品川博氏がドラマに感銘を受け、私財をなげうって創立したものである。品川氏は、昭和21年ラバウルから復員したが、東京・上野駅でうごめく悲惨な戦災孤児の姿を見て「戦争で拾った命を子供たちにささげよう」と決意した。靴みがきなどをしながら資金をため、NHKラジオドラマ『鐘の鳴る丘』をモデルにし、昭和23年9月に郷里に近い前橋市に養護施設「鐘の鳴る丘少年の家」を建設した。時あたかも、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が放送開始(昭和22年7月)から約1年後のことであった。

 社会福祉法人鐘の鳴る丘愛誠会の現理事長である品川道雄氏(自らも戦災孤児で「少年の家」で育てられ、品川氏の養子となった人)は、「創立75周年の歩み(令和4年12月5日)」で、「少年の家」設立の経緯を次のように述べている。

 〈鐘の鳴る丘愛誠会が運営する少年の家は、戦後、昭和22年に復員してきた品川博氏が家の無い戦災孤児5名の少年とともに家作りを始め、上野駅地下道省線車内に寝泊まりしながら靴磨きをし、知人親戚縁者を頼り、5か月後、念願の家を前橋市文京町(高田町)に借家として持ち、その後買い取り持ち家にすることができました。 その後、県より施設として認可され、児童の増加により手狭になり、旧大胡町の小高い土地を購入し、2年間、冬休み夏休みは毎日リヤカーで当時の私(品川道雄)11歳をはじめ、石川敬子氏、松岡千恵子氏、石井良夫氏16歳、松本功氏15歳、谷内保夫氏11歳、鈴木三郎氏11歳、河内春吉氏10歳の児童たちが片道12キロを歩き、開墾し、念願の立派な家を建設することができました(以下略)。〉  

 「鐘の鳴る丘」にひとしお思い入れのある私は、2021年12月末に、椛澤社長のお招きで同期の奥村君・田村君と共に、前橋に赴き永年の願いであった「鐘の鳴る丘少年の家」の訪問が実現した。前橋市では、均君のお兄さんの隆次氏が自ら車を運転して「鐘の鳴る丘少年の家」を案内してくれた。
 
私にとっては、幼児の時に叔母たちの背中オンブされながら、この世に生を享けて最初に聞き覚え、歌ったのが「とんがり帽子」(菊田一夫作詞・古関裕而作曲)という歌――NHKラジオで放送されたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌――だったという因縁から「鐘の鳴る丘少年の家」を訪問することはかねてからの願いであった。
 
私は、「鐘の鳴る丘少年の家」に対していささかの夢とロマンを抱いていたが、担当職員から「児童養護」の現場の実情を聞き粛然とした。この施設のスタート当初の目的は「戦災孤児」の養護であったが、今も「戦災孤児」に相当する「恵まれない子供たち」がいるのだという。平和で経済発展したこの日本に貧困や虐待などにより形を変えた「戦災孤児」が次々に生まれているというのが現実だというのだ。

 「鐘の鳴る丘少年の家」の訪問については、上毛新聞の吉越琴野記者が記事にして頂いた。記事の中で、私のことを「作家」と紹介していただいた。私は、当初おもはゆい気がしたが、「そうだ、私はこれからの余生は、『作家』としての気概を持つべきだ」と納得した。

吉越琴野記者の記事には、あの聖将とも仁将とも云われた今村均大将についても、次のように言及していた。

 〈「戦災孤児を守る家を作ろう」と、施設の運営に協力した今村に思いをはせた。福山さんは「人間愛あふれた今村さんには感激する。改めて、家族制度や教育について問い直したい」と話していた。〉

 記事にあるように、私は今村将軍については格別の興味・関心を持っていた。将軍は、大東亜戦争で戦った帝国陸海軍の将星の中で人間的に、また、作戦・指揮統率の上で群を抜いた軍人であった。私は、将軍に関する本はほとんど読んだ。
 
私は、分不相応ではあるが、『空包戦記』と『続空包戦記』という二冊もの自叙伝を書いた。私の執筆の動機は、冷戦時代、アメリカの頸木のもとに、憲法9条下の「反自衛隊」の世論の強い中、自衛隊が如何に逆境に耐えて、一途に国を守るために努力したのか――ということを、自分自身を例として、書き残そうと考えた。

 私はこの2冊を書くにあたって参考書を求めた。それが『今村均回顧録』と『続・今村均回顧録』(芙蓉書房出版)である。私は、これを教科書のように何度も精読した。そして、私は、この二冊の本を読んだことで、一層今村将軍に心酔し、将軍についての理解を深めることができた。
 
そのような私にとって、憧れの今村将軍の足跡に触れる機会が、期せずして、「鐘の鳴る丘少年の家」訪問を契機にもたらされた。なんと、椛澤兄弟は今村将軍と直接何度も会ったことがあるというのだ。隆次兄さんは、「鐘の鳴る丘少年の家」からご自宅に向う車の中で、「今村将軍についての話は、私の家でお酒を飲みながらじっくりと話しましょう」と言った。
 
隆次兄さんのご自宅に着くと、椛澤兄弟姉妹の家族が集まっており、うどんを打ち、こんにゃくを作ってフルコースでもてなしてくれた。地元の「赤城山」を始め数々の銘酒を振舞っていただいた。そこで、椛澤兄弟から今村将軍に因む数々の話を聞いた。まずは、隆次兄さんの話。
 
 〈最初に、「鐘の鳴る丘少年の家」と今村将軍のご縁についてお話しします。今村将軍は、第8方面軍司令官として、敵米軍の中に孤立したニューブリテン島のラバウルで、不敗の体制を構築して、10万人もの部下の命を守りました。「鐘の鳴る丘少年の家」の創設者の品川博氏は部下の一人として、ラバウルで終戦を迎え、復員しました。
 
私の亡くなった父は、今村将軍の直接の部下ではありませんが、名将の今村将軍を敬愛しておりました。また、母の兄と弟は、ラバウルで将軍の身近でお世話役をさせて頂いたという関係もありました。父の将軍に対する思い入れは、弟の名前を今村将軍にあやかって「均」と名付けたほどです。そんな私たちに耳寄りな話がもたらされました。
 
「鐘の鳴る丘少年の家」の職員に私の母校でもある群馬県立勢多農林高等学校出身の友人がいましたが、彼が言うには、今村将軍が養護施設の建設を支援されているとのことでした。
 
今日「鐘の鳴る丘少年の家」でもお話を聞いたように、今村将軍は元部下の品川氏が一念発起して戦災孤児の養護に努力していることを人伝に知り、深い関心を持たれたそうです。スタート時点の養護施設――前橋市文京町の借家――が手狭となり、旧大胡町の小高い土地を購入して、新しい施設の建設に乗り出し、施設の職員と子供達総がかりで鍬やシャベルなどで開墾していたのですが、なかなか捗らなかったそうです。
 
そのことを聞きつけた今村将軍は、陸軍士官学校の後輩である警察予備隊の幹部に依頼して、新しい養護施設の建設に警察予備隊の施設部隊の支援を要請してくれたそうです。群馬県の相馬原駐屯地には、昭和27年4月に警察予備隊総隊特別教育隊(特科(野戦砲)及び特車(戦車))が設置されていたそうで、ここを拠点に工兵部隊が米軍から供与されたブルドーザーなどを投入して養護施設用の土地の開墾を支援してくれたのだと思います。
 
そんな折、弟(均氏)が昭和40年秋に防衛大学校の1次試験に合格しまた。そのことを「鐘の鳴る丘少年の家」の品川博園長に話したところ、園長は、弟が今村将軍を訪ねて直接国防などのお話を聞くことを勧められ、自ら、弟をわざわざ今村将軍のご自宅まで連れて行ってくれました。
 
弟は、世田谷の宮坂にあった将軍の寓居を訪ね、懇切なお話を承る機会を頂きました。これが、将軍と椛澤家とが直接ご縁を頂いた始まりです。〉
 
次に弟の均君が話してくれました。

〈そんな経緯で、今村将軍のご自宅を訪ねました。将軍のご自宅は、至って簡素なものでした。私のような少年に諄々と優しい語り口で国防の重要性をお話ししてくださりました。
 
それ以来、将軍と接する機会を何度か頂きました。ここに6通の将軍からのお手紙があります。防衛大学校の1年生と2年生の時にそれぞれ3通頂きました。将軍宅に遊びに来るようにとの懇切なお手紙です。例えば、昭和41年10月15日のお手紙の末尾には「晝(昼)食は準備しておきますから、たべないでおいで下さい」とあるように、細やかな配慮をしてくださいました。
 
防大1年生の私のような者に対しても、将軍は何のわだかまりもなく親しく、優しく接してくれました。旧帝国陸軍で、第8方面軍司令官・陸軍大将をされたという〝偉さ〟は、微塵も感じられませんでした。
 
ここにある昭和41年10月15日の手紙には、「去る五日、少年の日に赤城山麓の『少年の家』に参り、帰途椛澤様の御宅を訪ね、御両親及びお兄様などにもお目にかかり、皆ご壮健何よりにおよろこび申しました。二十二日の午後二時頃在宅、お待ち申し上げます。五月十五日」と書かれており、将軍が5月5日の子供の日(将軍は「少年の日」と書かれている)に「鐘の鳴る丘少年の家」を訪問された後、私の家においでにならたことが分かります。この経緯については、兄が詳しく話してくれると思います。
手紙に書かれている通り、私は5月22日に将軍の御宅を訪ねました。直接お目にかかった時の印象は〝偉い将軍〟という雰囲気は微塵もなく温厚で〝優しいお爺さん(好々爺)〟という感じでした。ただ、国際情勢などについては的確に把握されていました。1967年6月5日から6月10日まで第三次中東戦争が起こりましたが、その直後に伺った時は、中東情勢を的確に把握・分析されており、「流石〝将軍〟だ!」と、感嘆したものでした。将軍は、インテリジェンスにも通じていました。「毛沢東は多くの影武者がいる。9人ほどいるようだ。」と言われたのを覚えています。〉
 
隆次兄さんが続けた。
 
〈この手紙にある通り、「鐘の鳴る丘少年の家」を訪れた将軍を我が家にご案内したのは私です。昭和41年5月5日の子供の日に将軍は「鐘の鳴る丘少年の家」を慰問されました。勿論、私も参りました。

私は将軍に、「今村大将、私の家においでください。」と勇気を出して申しあげました。すると、将軍は快諾してくださったのです。今村大将の突然の訪問に父も母もビックリでした。特に、父にとって、今村大将は神様のように崇める人です。今村大将の訪問は、文字通り〝青天の霹靂〟の例えの通りでした。

写真は、その時のものです。申すまでもありませんが、弟の均は防衛大学校の1年生だったので、写真に弟の姿はありません。ちなみに、「鐘の鳴る丘少年の家」から私の家に移動する際は、スバル・360を私が運転して、将軍を自宅に案内しました。私の家族は初めのうちは極度に緊張しましたが、将軍の屈託のない優しいお人柄のせいで、自然と打ち解けた雰囲気になりました。大将の御来訪は我が家にとっては、この上ない名誉なことであり、おおきな喜びでした。
 
昭和42年・43年のお正月にはいずれも4日の10時に将軍宅に、前橋から電車に乗って、弟と二人で新年の御挨拶に伺いました。その時、印象深いことがありました。偶然とはいえ、驚いたのですが、なんと私たち兄弟の次には、当時の佐藤栄作内閣総理大臣の年賀が予定されていたのです。
 
将軍が私たち兄弟とお話をされている際に、奥様が将軍に「佐藤総理大臣がお見えになりました」と告げられると「待たせておきなさい」と申され、私達との会話を続けられました。総理大臣を待たせるのは申し訳ないと思いましたが、将軍が来客の身分や地位に拘泥せず、公平・平等に対応されることに強い感銘を受けました。〉
 
「敗軍の将は兵を語らず」の喩え通り、旧軍の将帥は戦争の体験を話す機会はほとんどなく、私達防衛大学校の卒業生は旧軍の将帥の拝眉を得る機会は殆どなかった。そんな中、椛澤兄弟は、旧軍の将官の中で最も尊崇を集める今村大将に親しく接することができたわけだ。これは、稀有なことで、羨ましい限りだ。椛澤均君とは、防衛大学校2年以降訓練班が同じで親しくお付き合いする間柄だった。在学当時、事情を知っていれば、私も椛澤君にお願いして、直接、今村将軍の謦咳に接する機会を頂けたのかも知れない。
 
余談だが、今村将軍に関する話は第24代陸上幕僚長の冨澤暉元陸将からもお聞きしたことがある。冨澤将軍のご尊父の冨澤有為男氏(1937年に芥川賞を受賞)は、今村将軍が、大東亜戦争開戦時、第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮した際に、軍司令官の下で報道班員をされたそうだ。そのご縁から、有為男氏は冨澤暉将軍が防衛大学校を受験する際の相談や結婚時の仲人までお願いされたそうだ。
その冨澤将軍が今村将軍から直接死生観についてお伺いしたエピソードを紹介したい。これは、[文芸春秋]平成26年12月号のエッセイ欄からの抜粋である。
 
〈防大に入ったばかりの頃、私は不躾にも「私も軍人になりますので、死生観について教えて下さい」とお聞きしたことがあった。閣下は静かに「私には死生観をお教えすることは出来ません」と言われた。
 
「恥ずかしいことですが、実は私はラバウルの始末が一応ついた時に、自決しようとして失敗してしまいました。飲んだ薬が古くなっていて効かなかったのです。それ以来、死というものを自分で決めることは出来ないと考えています」とのことであった。今村閣下は若造に対しても、素直に丁寧に、お話しして下さる方であった。〉
 
私は、今村将軍の「死というものを自分で決めることは出来ない」というお考えの背景をこう考える。今村将軍は、宗教者ではないが読書家で聖書や歎異抄をよく読んでおられたという。キリスト教における自殺の戒めについて「聖書入門.com」は次のように述べている。
 
〈自殺というのは、聖書的には殺人です。加害者と被害者が同じだというだけで、これが殺人であることに変わりはありません。ですから、自殺は「罪」です。さらに、自殺は周囲の人たちに、「癒しがたい傷」を残します。愛する者を自殺で失った人たちの悲しみは、いかばかりでしょうか。悲しむだけでなく、自責の念に駆られる人も出て来るでしょう。〉
 
今村将軍の死生観には、キリスト教の影響があったのかも知れない。
 
上述の経緯で、私は、椛澤兄弟のお陰で、永年にわたり憧憬していた今村将軍の足跡を辿ることができた。このことは、「鐘の鳴る丘」と同様に、心の中で長いあいだ求め続けていた二つの関心事が明らかになり、何だか満たされた思いがする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?