「「マイナス内包」としての性自認の構成」感想

 直接渡されたわけではないので本文を読まない状態で以下の記事が公開される前にホリィセンと「「マイナス内包」としての性自認の構成」について議論はしていたが、ようやく当該論文が掲載された『情況』が手に入ったので読みつつ感想を書いた。哲学パートはそこまで不自然と感じる議論がなかったので、哲学パート以外の感想が主になってしまった。

第1節 はじめに(p.75〜)

 まず、この論文では「自分のことを女性(男性)だと思っている」という信念のことを「性自認」と呼ぶ、と定義されている。こういうふうに定義した「性自認」がいかにして可能であるかを論じる、と明言されており、著者がTwitter上にて公開していた査読コメントにある「本論文は、特にトランスジェンダーの「性自認」がいかにして可能になるのか、という問題に対して」という部分は実態に即していない。

 この「性自認」定義の前後でトランスジェンダーに触れているからそのように誤認したのだと思われるが、それは(性的少数者にスコープを絞らない)「性自認」概念を分析した結果として特にその素朴な理解との差異が顕著に現れるであろう対象だから触れているのであり、本文に書かれている通り「あらゆる人に関する普遍的問い」を扱っている。

第2節 「性自認」概念をめぐる社会的混乱(p.77〜)

 ここでは医学的概念である「性同一性」がトランス権利運動の中で脱医学化を経てここで定義した「性自認」に接近していることを指摘している。「それが自己確証に基づく「一人称特権」を伴うものとして言説が組織されるようになってきた」ことやそのことが「混乱や分断を生む原因となった」という断定には(個人的にはそうだろうとは思うのだけれど)根拠が必要だろうし、それを示したとて「性自認」概念を検討するという本筋から外れているので、その事実確認に必要な情報が(紙面の関係上そんな余裕はないのかもしれないが)用意されないのであれば不必要な部分だったのではないか。「混乱や分断」が何を指すのかもはっきりしない。
 論文全体の中でのウェイトは小さいが、これは哲学パートではなくたんなる事実の確認であってなおかつ「著者がジェンダー論研究者であると判断している査読者」との間で齟齬が生じていそうな部分なので言及しておきたい:「性自認」(「自分のことをX性だと思っている」という信念)と「性同一性」の違いについて「「性自認」は性同一性の一部を構成するにすぎない」(すなわち医学的概念である「性同一性」は違和の有無に付随した概念であるということ?)というのは本文からは適切な議論なのかわからなかった。著者は「出典まで遡って検討している」と言っているが、引用元からは「性同一性障害」が元々「genderの"identityにまつわる障害"(性-同一性-障害)」として扱われていたのか「(「自分のことをX性だと思っている」という信念としての)"gender identity"にまつわる障害(性同一性-障害)」として扱われていたのか判断できない。著者は前者として扱っていて査読者は後者として扱っているせいで話が噛み合っていないように見える。前者と後者では「性同一性」の意味が異なるが、「性同一性障害」の意味は変わらない(ように整合性を持たせることが可能である)。もしかすると元々前者でしか解釈され得ないものだったのがその後で言及している「二〇世紀後半からのトランス権利運動の流れの中で」進められた「脱医療化」によって「性同一性障害」という言葉に両方の解釈が可能になったのかもしれないが、この段落でそれを判断できる情報が欲しい。これは単純に知識の問題なので歴史的なことがわかる人がいたら教えてほしい。

 素朴には前者の意味で「性同一性」という言葉が使われてきていそうだが、例えばオンライン医学事典MSDマニュアルの性別違和の項目は専門家が執筆しているが"gender identity"を後者のように定義しており、実際のところ精神医学コミュニティで"gender identity"単体がどう扱われているのか/きたのかわからない。

 ホリィセンも指摘するようにDSM-5の「性別違和」の診断基準は「欲求」や「確信」にもとづいているため、少なくとも現在は精神医学においても「性同一性」は後者の意味(「自分のことをX性だと思っている」という信念)で使われる場合が普通に想定できる。査読コメントの「「性自認」は「性同一性」と同じ意味の言葉」という部分はこの部分の指摘として読むことができるのではないか。
 哲学と関係ないところで行間の広い部分があり、著者は「査読者が(おそらく)ジェンダー論の研究者であること」に憤っていたが、こういう細かい事実確認をするためにジェンダー論の研究者が査読に入ってくること自体はやむを得ない構成になっているし、査読者はさらに精神医学に言及している部分について事実確認できる必要もある。哲学研究者メインで査読するなら、事実確認のコストをもっと下げたほうがいいという印象を抱いた。哲学的議論とは切り離せる(と言ってしまうと谷口氏は同意しないかもしれない)内容だが、書いてある以上は査読者も事実確認せざるを得ない。コアとなる議論には直接影響しないのだからとここを怠っては、極端に言えば論文中の学術的貢献のある箇所には全然影響のないところで「この世界は裏でディープステートがすべてを操っており」という一文を入れることができてしまう。

第3節 「性自認」概念のかかえる哲学的困難(p.77〜)

 ここから「性自認」概念の分析が始まる。「私は自分のことを性Xだと思う」と言うときに感じられている「それ」は何か。そういう素朴な問いを立ててしまうと「性自認」概念の分析は頓挫する、ということがこの節で主張されており、このこと自体はおそらく正しい。ここでは「例えば心を自由に入れ替えることができ、彼が色々な身体を渡り歩くうち「女」の身体になったときだけ体験する特異な感覚なり気分なりといったものを発見して、それを私的に同定した場合」にはそういう特異な体験にもとづく信念を有意味に言語運用することができるが、実際そんな入れ替わりが起こっていないのでできない、と論じている(と思う)が、実際起こっていないことはあまり重要ではない。仮にそのようなことが日常的に起こったとしてもそういう経時的・社会的な状態に「感覚」を紐づけることができないということが重要なのではないか。
 というのも、X性器を持つ身体になったときにだけ必ず体験するその特異な感覚から「X性器を持つことに由来する部分」を切り出すことはおそらく不可能と思われるからだ。このような切り出しを行うにあたって困難が生じる。それは、論文の脚注1でも言及されているが、X性身体を定義することが容易ではないということだ。脚注では「ここで問われている事柄は"信念の意味"なのだから、ここでの「女性(男性)身体」は「社会構成員の多くが、それを女性(男性)身体だと考える物体」として」おくとして(第6節を除いて)この問題を傍に置いている。しかし、ひとが「性自認」を意識するときであるほどむしろ、そのようなファジィなX性認識ではなく、以下のふたつのどちらかを思い浮かべているのではないか。(これは考えすぎだろうか?)

  1. 経時的・社会的な「X性である」という状態。ひとが「X性」であるときの、社会的な扱われ方と、その経験の累積。X性器の有無は、このような経験の累積にある傾向を生じさせるが、決定的な要因ではない。
    cf. 性分化疾患(脚注1でも触れられている)

  2. 生物学などの基準による厳密な「X性である」という状態。脚注1で述べられているようにこれを定義することは容易ではないため、こちらを思い浮かべたひとはバイナリの「性自認」を持つことができなくなるかもしれない。

 少なくとも僕はこのいずれかの意味でしか「性自認」を持っていると言い難い状態であるという自覚があり、1の意味で「自分は男性である」という信念を持っていて、なおかつ2の意味で「自分は5gh2cf979jicah024516jjoda2i3ni1k9性である」という信念を持っている。ここに入っているのはテキトーに打ち込んだ文字列だが、要は他の誰とも(おそらく)一致しないなんらかのラベルとしてしか表現できないということだ。僕は他人に「あなたはどういうしかたで性自認を持っているのか」と聞いたことがないので、もしかしたら多くの人はそんなしかたで性自認を持っていないのかもしれないが、ここで最も重要なのは「1のしかたで性自認を持つことは素朴なしかたで性自認を持つことを説明し得るが、逆はできない」ということだ。
 ホリィセンの記事でも「性自認が社会的経験の累積の結果として構成できるという議論がすっ飛ばされている」と指摘しており、このあたりをもっとしっかり組み込んだ議論も読んでみたい。著者はホリィセンへ「社会的性自認の話を故意に落としている」と応答しているが、この「異論」がその役割を少しでも担えていれば嬉しい。

 とはいえ、故意に落としたというのが本当であれば、読者とのコミュニケーションとして健全でない。数学畑の人間だからかもしれないが、どういう意図があれど知っている情報を出さないのは単純に議論の品質を低下させることに繋がるのでは、と感じた。

第4節 原罪、あるいは「無」の性的主体への開設:キルケゴールを手がかりに(p.79〜)

 前節では「性自認」概念の分析にまつわる困難を挙げたが、ここでは「自分のことをX性だと思っている」という信念がそもそもどう発生したのかを考え、その鍵となる「言語の成立」という「原罪」前後について論じている。言語世界へ参入することによって主体は開設(「「私は、谷口一平という一人物として、客観的世界の内部に存在してもいる!」ということに驚異し、それを知る」)され、その際に「性的身体」もまた成立する。ここに異論はなく、さらに「性自認が社会的経験の累積の結果として構成できる」としても(「性自認」がstaticなものでないということに注意すれば)ほぼ同じ議論が可能であるように思う。

第5節 原罪前性自認成立説と原罪後性自認成立説(p.84〜)

 この節では「性自認」の成立が言語の成立以前であるか以後であるかを「原罪前性自認成立説」「原罪後性自認成立説」というふたつの立場に分けたうえで、後者(言語の成立後でなければに性的主体の自己規定は不可能)を採用することを宣言している。これは自然な立場だと思う。

第6節 「マイナス内包」としての性自認の構成(p.85〜)

 この節で「性自認」成立後に事後的にその源とみなされる物として「脳」が導入される。「私の身体は男であるが、私はもともと女であった」というふうに、言語の成立とともに成立した「性自認」を事後的に「そもそも生じていたかもしれない」と考え(「マイナス内包」として捉え)、その源とみなすのにふさわしいのが「脳」である、というわけだ。(という理解が合っているか、心配ではあるが。)著者はその理由として「「トランスジェンダー」が現代科学を前提とした、科学史的見地から本質的に現代的な観念として登場してきたものであるように、筆者には思われる」ことを挙げている。第2節の感想で述べた理由(精神医学においても「性同一性」は「自分のことをX性だと思っている」という信念を指し示す場合が普通に想定できる)により、少なくとも2024年現在においては必ずしも現代科学に目配せをする必要性は大きくないと思う。これは著者の指摘する「社会的混乱」のせいというわけではなく、ホリィセンも指摘するように「「性同一性」は科学的探究の末に本質主義的な定義が可能なカテゴリーとは到底考えられない」ことによる。
 「脳」を導入すること自体は永井氏も言うように独立した価値のある試みだと思われるので、おそらく別の論文としてもっと一般化した議論を出しておいたほうがわかりやすかったのだろう。

全体の感想

 哲学的議論に関しては特に不自然だと感じるところはなかった。実際の査読コメントに藁人形論法な部分があり、リジェクト理由も事実誤認にもとづいているということには同意する。哲学的議論以外の部分で事実確認のコストが発生する記述があるので、査読に哲学研究者以外が入ってくること自体は仕方がない内容になってしまっている。トランスヘイト論文であると言われているが、どちらかと言えばポジティブな試みだと思う。ただ、根拠が十分に示されていない状態で断定されているように見える部分がかなり気になるので、査読コメントの「論述に関する典拠が必要」という指摘を(「ジェンダー論に対して学術的な貢献をなしうるため」ではなく、単純に書かれている内容の事実確認をするために)反映するか、哲学的議論に直接関係のない部分はなるべく書かないほうがよかったのではないか。

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