「A は批判するのに B は批判していない」ことの指摘について

 「A は批判するのに B は批判していない」という指摘は便利だ。言われた相手は、少なくとも表面上は「一貫性がない」ように見えてしまうし、場合によっては本来触れる気もなかった B の批判にエネルギーを消耗させられることもある。
 もしも言われた側が「A は批判するのに(まったく同じ理由で批判することのできる)B を称賛している」ような状況であれば、この指摘は致命的である。こういう場合は本当に一貫性がないので、意味のある指摘となるし、そういう不誠実な態度はどんどん指摘していくべきだろう。
 人間が批判対象を"選んで"しまうこと自体は至ってふつうのことだ。スポンサーから直接または間接に金を貰って何かを書いているためにそれらの企業を批判できなかったり、勤め先の企業にとって不利益となるようなことが書けないような状況は当然に発生する。僕も向こう半年くらいはわざわざヴィ◯ッジ◯ァンガード(※VTuber のほうでコラボグッズが出たのでみなさん買ってください)を選んで批判するようなことはしないだろうと思う。
 ただ、その場合であってもやはり「では B はどうなのか」と問われたときに B を擁護したり称賛したりするようであれば叩かれても仕方がない。そこで"政治"をぐっと我慢できないような軟弱な気持ちで A を批判したのがそもそもの間違いであったということだ。どうしても言いたくなければ態度を保留しても、少なくとも僕は(相手のそのような態度が「よっぽどの無法者をさらに増長させてしまう」などの深刻な問題を生じさせて間接的にでも他人を害するようなものでなければ)それ以上追求しないし、すべきではない。

 とはいえ、実際に「A は批判するのに B は批判していない」という指摘が行われるとき、その多くは不適切な指摘であるように見える。理由はふたつある。
 第一に、この指摘を有意味にするためには、A と B が本当に同じ理由で批判可能であるかということと、仮にそうであったとしても A の批判者が批判したいのは B と同じ点についてなのかということを十分に検討する必要がある。ここ数年で、表面だけの知恵をつけて「反転可能性テスト」のような取り扱いの難しい概念を文字面の類似性だけで振り回す比較的愚かめな人間が確実に増えているため、それがクリアできていないケースは非常に多いと考えられる。
 第二に、指摘を行う者が A の不正性を否定したい場合にこの指摘はまったく意味をなさない。「そうだね、A も B も不正だね」と返されると、指摘した側が B の不正性を信じている場合には逆に A の不正性を否定できなくなるという"自爆"をしてしまう。指摘者が B の不正性を信じておらず、単に「A の批判者が一貫性を欠いている」というふうに見えるような B を適当に選んだとしても、「今まで B を批判していなかった」ことは A の不正性とは何の関係もない。海の外では今日も戦争が起こっていて、多くの人が酷い殺され方をしているけれども、僕たちはそのことをすっかり忘れて目の前の暴漢を非難することができるし、目の前の暴漢は非難すべきだろう(いや、その前にポリを呼ぶのが先か)。ただ、それだけのことだ。誰しも解決したい問題には優先順位があり、自分に近しい問題や、たまたまそのとき目についた問題の優先順位が高くなってしまうのは当たり前のことなのだ。確かに B も不正で腹立たしいけれども、自分の中では A の優先順位が高いからまずは A を重点的に批判する、という態度はけっして否定されるべきものではない。

 「A は批判するのに B は批判していない」という指摘は、A の不正性を否定したい場合にはほとんど意味をなさず、相手の一貫性や不誠実さを問題にしたい場合にのみ有効である。また、相手の一貫性や不誠実さを問題にしたところで、「A の不正性」という個別の議論には(批判者の信用を落とすことで見かけ上は影響があるかもしれないが)本質的な影響を与えない。慎重に用いるように。


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