人生

 一九九五年三月の大阪で、手品師の父と音楽マニアの母の間に、後に「複素 数太郎」と名乗ることになる子供が生まれた。父親の誕生日の翌日午前三時頃という、ほとんど誕生日プレゼントのような形だった。父親は息子を手品師にしたかったのか、ある時まで手品を教えていたが、数太郎は練習というものがあまり得意ではなかったために、十分にそれらを習得することができなかった。

 数太郎の自我が強くなり始めたのは三歳の頃だった。彼の通う幼稚園には当時、男女問わず「外で運動する際には上裸でいなければならない」という不合理な決まりがあった。これは親が観に来る運動会の際にも適用され、多くの児童が強制的に上裸の写真を大量に撮影されることとなった。数太郎は幼いながらにその決まりが不合理なものであると明確に理解していたため、児童の中でただひとり断固として脱衣せず、普段の活動でも運動会でもずっと服を着たままだった。実家に残る当時の写真には、上裸の子供たちの中にただひとりだけ服を着た数太郎が写っている。三歳の彼は、理解のできない決まりには従わなくてよいということを学習した。

 自我が強くなった数太郎は、自分のまわりの様々なことについて興味と執着を持つようになった。彼はあらゆることについて「なんで?」と繰り返し尋ねるようになり、両親はインターネットや書籍等でその疑問に答えることを強いられた。彼は家庭内で「なんでくん」とも呼ばれるようになった。あまりにもなんでなんでと質問し続けるため、次第に両親の力では回答することが難しくなっていった。両親は数太郎が興味を示した書籍はなんでも購入して与えるという策でこれを乗り切った。彼は科学雑誌を読むようになり、特に「宇宙」へ興味を示したらしい。

 これらの性質はほとんどが母方の祖父から受け継いだものと考えられる。母方の祖父は数太郎が中学生の頃に亡くなったが、記憶にある限りでは「大学院へ進学しよう」などと考そうな血縁者はこの人物しかいないのだ(当人は大学院へ進学していないが)。祖父は宗教に興味を持っており、宗教やオカルト関連の書籍を多く所持していた。数太郎は祖父から物事をあくまでも単なる対象として観察することを学んだ。過剰に影響を受けた数太郎の「宗教」への信仰心は日本人の平均的なそれを大きく下回るようになり、やがてその気持ちは「嫌悪感」へと変化した。なぜみんなそんなあからさまな嘘に騙されているのだと憤りを覚えるようになり、数太郎だけ祖父の仏壇に手を合わせない、初詣の列へ並ばない、等の過剰なまでの宗教忌避へと繋がった。その後、彼は長いリハビリを経てある程度の宗教的儀式には抵抗なく参加できるようになった。

 高校生になった数太郎は、絵を描くことに熱中していた。彼は、大学は美大へ進むか、物理学を学ぶかのどちらかがよいと考えた。数太郎は高校二年の数学の教科書の記述に満足がいかず、それまであまり積極的に会話をしてこなかった数学教師へ質問した。この真数条件という気持ちの悪いやつは本当に必要なのか、実はどうにかしてうまく定義できるのではないか。そう聞かれた数学教師は、数太郎に複素関数論なるものの存在を教えた。それから頻繁に数学教師と話すようになり、集合論というものがあると教えられた数太郎は、高校の勉強というのは存外曖昧に誤魔化されているものが多く、つまらないしいいかげんだと感じるようになった。彼は大学では数学を学ぼうと決意し、それからは暇があれば数学をするようになった。

 高校三年の冬、大学受験を目前に控えた彼は、勉強の息抜きにツイッターアカウントを開設した。ハンドルネームはそのときちょうど開いていたページから取った「複素数」という単語を使い、母親がよく聴いている歌手の「忌野清志郎」に少し寄せて「複素 数太郎」とした。

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