「今の価値観で昔の作品を裁くな」という必殺技について

「今の価値観で昔の作品を裁くな」という必殺技

 いったいいつから使われはじめたのかわからないが、この頃はかなり頻繁に「今の価値観で昔の作品を裁くな」という必殺技を目にすることが多い。必殺技と表現したのは、それを使う人々は多くの場合で個別の状況や内実などまったく考慮せずにどんなケースでもとりあえずそう言っておけばよいと考えているように見えるからだ。
 もちろん、ここ数十年における情報通信の発達や医学的進歩によって光が当てられたような可視化されづらい問題について、一定以上過去の人々が想像することは困難だろう。しかし、そういうわけでもないケースで端的に「まあそれはあんまり良くなかったよね」としか言いようのないものにまでとりあえず「発表年代が古いから」という理由で必殺技を使用してしまう者があまりにも多すぎるのではないか。そんな年齢で当時の価値観とやらの何を知っているんだと言いたくなるような若者が使っているのを見ると、完全に必殺技になっているんだなと感じる。

それは本当に"今"の価値観か

 そもそも"昔"の価値観とやらはそんなに無秩序なヒャッハー状態だったのだろうか。今話題になっているさだまさしの「関白宣言」が当時から一定の抗議を受けていたらしいことから、それは考えづらい。
 ちなみに僕は平成初期生まれながら中学時代にはずっとさだまさしを聴きながらギターを練習していたし、「今夜も生でさだまさし」も熱心に視聴していたくらいにはファンだった。それでも「良くない部分もあったよね」と言われたら素直に「そうだね」としか返せない。しきりに言われている「歌詞を最後まで読めば印象が変わる」というのは何の擁護にもなっていない。

 必殺技が放たれるとき、「その人の属性によって不当に扱いを変えたり蔑視したりしてはいけない」という価値観は新しいものだという前提が置かれているようだが、大昔の倫理学の議論と当時の奴隷制度がどう見ても矛盾しているのに謎の強力な「奴隷」概念が生えてまかり通っていただけなのと同じで、単純にその時点で矛盾しているものが「矛盾している」と大勢が気づくようになっただけではないだろうか。
 「矛盾をより高精度に解消しよう」を新しい価値観だとするならまだ言いたいこともわからなくはないが、既存の道徳体系になかった新しいものが生えてきたような扱いは事実に反するだろう。あくまでも我々は過去の価値観の延長線上にいて、昔は一定数の人々が無視していたことであってもよく考えればその時代でも「良くない」という結論に辿り着けるはずだ。

数や力で問題は無化されない

 仮に"昔"に生きた人々の過半数の価値観が現在と大きく異なるとしても、そのことを理由として無条件に「今の価値観で昔のコンテンツを裁くな」と主張することに正当性はあるのだろうか。
 確かに"昭和"を探せば、今から見れば正気を疑うようなやべー発言の記録がいくらでも見つかる。しかし、そのやべー発言を受ける側だった人々は当時も確かに存在したし、実際に苦しんでいた。黒人や女性がある時点で急に無から発生して、発生前にはその無が蔑視されていた、なんて状況ではなかったはずだ。声のデカい奴らがやべーことを言っていた記録が残っていたというだけで、そこに問題が存在しなかったということにはけっしてならない。多数派だったから、よく考えていなかったから、は免罪の理由にならない。いじめをしていた不良が今になって「まわりのみんながやっていて、それが悪いことだとわからなかったから仕方なかった」と言っても非難は免れないだろう。力の強い人間が「当時は力が強かったから」という理由で免罪されることもない。

我々は常に非難されうることをしながら生きていく

 とはいえ、これからも複雑化し続ける「矛盾の解消」を完全に遂行するのは、個人レベルではまず不可能である。現在時点ではほとんどの人が意識していない「植物の権利」が叫ばれ、未来のハイパーテクノロジーによって動植物の摂取が不要となり、生きるために植物の栽培さえも必要のなくなった世界では、道に生えている植物を引っこ抜くことは非難の対象となるかもしれない。意思表示ができないことや、我々が今把握できているようなかたちでの「意識」を持っているかどうかは、権利を享受すべきであるということといったいどう関係するのだろうか?
 ここで断っておかなければならないのは、インターネット上で議論される程度の話題のほとんどはけっしてそこまで複雑ではない、ということだ。これはあくまでもかなり極端な例だ。100年前には権利運動が始まっていたような属性の差別について延々と議論しているような空間で、「植物の権利」といった高度に前提を必要とするような日常感覚から乖離した議論は、よっぽどの物好きでなければ今後100年は触れようとも思わないだろう。

 それでも抜け漏れは出てきてしまう。さほど複雑ではないテーマについても、ついうっかり失言をしてしまったり、蔑視してしまったりすることはどうしても生じる。我々は常に非難されうることをしながら生きていくのだ。ここで必要なのは、「我々には複雑ではない問題についても抜け漏れがありうる」と認めることであって、「当時は許されていた[誰に?]から、現在から見て非難してはいけない」と殻に閉じこもることでも、過度に問題を複雑に捉えて「当時そんなことに気づけるはずがなかった」と主張することでもない。

非難されても作品の価値は残り続ける

 何より重要なのは、作品は「非難されると価値が消える」わけではないということだ。「良くない部分」があっても、それとは別に作品の価値自体は残る。
 作品のクオリティとは別の部分においても傷ひとつ付いてはいけないわけではないし、実際に「良くない部分」があって傷が付いているのだからそこはどうしようもない。あるのはあるのだから、「良くない部分がある」と指摘されたら(指摘がただ間違っているだけならその旨を返せば良い)素直に「そうだね」と返し、それでも作品のクオリティと価値自体は確かなものであると胸を張っていればいい。

 必殺技を使用する人々の中には、「いかなる面においても作品に傷が付いていてはならない」という潔癖症的な意識を持っている人もいるだろう。その意識が、いつの日かあなたからその大事な作品の価値を奪ってしまうかもしれない。あなたの中の違和感に少しでも触れてしまった作品を受け入れられなくなってしまうかもしれない。そうならないように、どうかダーティな作品も素手で愛せるようになってほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?