名探偵のはらわた 登場事件解説-4 青銀堂事件

名探偵のはらわたに登場する事件の元事件をご紹介

・青銀堂事件→帝銀事件
 1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区長崎の帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店(統合閉鎖により現存しない)で発生した毒物殺人事件。

 1月26日午後3時過ぎ、閉店直後の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を出して
「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」
「感染者の1人がこの銀行に来ている」
と告げ、行員と用務員の一家合計16人(8歳から49歳)に青酸化合物を服薬させた。

 その際、全員に確実に飲ませるため遅効性の薬品を使用し、「歯の琺瑯質(エナメル質)を痛めるから舌を出して飲むように」と手本として犯人自らが最初に飲んだほか、第一薬と第二薬の2回に分けて服薬させるなど、巧みな手口が生存者によって後に明らかにされた。
 犯人が自ら飲んだことで、行員らは信用した。
 また、上下水道が未整備で伝染病が人々を恐れさせていた時代でもあった。

 16人全員がほぼ同時に第一薬を飲んだが、ウィスキーのような、胸が焼ける感覚が襲った。
 約1分後、第二薬を渡され、苦しい思いをしていた16人は競うように飲んだ。
 行員の一人が「口をゆすぎたい」と言うと、犯人が許可したため全員が台所などへ行くが、さらに気分は悪くなり、やがて気を失った。
 一人の女性が失神を繰り返しながらも外へ出たことから事件が発覚。

 11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。
 犯人は現金16万円と、安田銀行(現在のみずほ銀行)板橋支店の小切手を奪って逃走。
(現在の貨幣価値に換算すると100倍ほどになる。)

 集団中毒の様相を呈していたため初動捜査が遅れ、身柄確保ができず、現場保存も出来なかった。
 小切手は事件翌日に現金化され、関係者が小切手の盗難に気づいたのは事件2日後だった。

 その後1947年(昭和22年)10月14日に安田銀行荏原支店、1948年(昭和23年)1月19日三菱銀行中井支店で類似の未遂事件が起こる。

 犯人から受け取った名刺を帝国銀行椎名町支店の支店長代理が紛失したことも判明(当時、支店長は不在)。
 彼の記憶と2件の類似事件の遺留品である名刺、生存者たち全員の証言から似顔絵が作成され、事件翌日に現金に替えられた小切手を手がかりに捜査は進められた。

 遺体から青酸化合物が検出されたことから、その扱いに熟知した、旧陸軍731部隊(関東軍防疫給水部本部)関係者を中心に捜査が行われていたが、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられてしまう。

 そんな中、名刺班の進めていた、類似事件で悪用された松井蔚の名刺の地道な捜査に焦点が当てられていく。
 松井は名刺を渡した日付・場所・相手を記録に残していた。
 100枚あった名刺で松井の手元に残っていたのが8枚、残る92枚のうち62枚を回収し、紛失して事件に無関係なものが22枚。
 行方が最後まで確認できない8枚のうちの1枚を犯人が事件で使用したとされた。

 1948年(昭和23年)8月21日、松井と名刺交換した人物の一人であるテンペラ画家の平沢貞通を北海道小樽市で逮捕した。

 逮捕の理由は、松井蔚と名刺を交換していたが、平沢は松井の名刺を持っていなかった(平沢は財布ごと盗まれたとして盗難届を出していた)。
 平沢は「事件発生時刻は現場付近を歩いていた」と供述したが、そのアリバイが証明できなかった。
 過去に銀行で詐欺事件を起こしている。
 事件直後に被害総額とほぼ同額を預金しており、その出所を明らかにできなかった
などであった。

 警視庁は平沢を被害者に面通ししたが、断言できた者は一人もいなかった。
 平沢は一貫して容疑を否認していたが、拷問に近い取り調べの末、1か月後には自供を始め、帝銀事件と他の2銀行の未遂類似事件による強盗殺人と強盗殺人未遂で起訴された。
 
 東京地裁で開かれた公判において、平沢は自白を翻し無罪を主張する。
 しかし東京地裁で一審死刑判決。
 1951年(昭和26年)9月29日、東京高裁で控訴棄却。
 1955年(昭和30年)4月7日、最高裁で上告棄却、5月7日、死刑が確定した。

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