寝取ることについて語るときに僕の語ること

表題のとおりである。

このnoteでは主に子どもの頃から20代の頃の話を書いている。私は育ちが悪く、高校生くらいの頃から性に奔放な生活を送ってきた。その中で悪いことをたくさんしてきたわけだが、その中でもトップクラスにたちが悪いものとして「婚約ないしは結婚直後で幸せまっしぐらな奥さんを寝取る」というものがあった。

もう時効になると思うので、腹をすえて寝取ることについての話をしようと思う。この話は気分のいい話ではない。悪趣味といってもいい話である。加害者であるにもかかわらず思い出して嫌な気持ちになる。だが、いつか文章にしたいと思っていた。文字に起こして、自分の中の理屈のようなものをかたちに残しておきたいと思っていた。

これは心の話が主になってくるから、あいまいな表現が多いと思うが、すこし我慢していただければと思う。

大学の同期のTと私は「芯のない女性」を見つける能力が天才的であった。これについてはまったく類は友を呼ぶということであり、別に私やTがとくべつな人間だということではない。ただそういう女性を嗅ぎ分ける嗅覚のようなものが抜群に鋭かった。これは他人の顔色ばかり伺って生きていく能力を極限まで鋭角化させていくと手に入るもので、通常の人生にはまったく必要のないスキルである。

「芯のない女性」とは、自分の人生にずっと嘘をついて生きてきたようなタイプの女性のことである。レジリエンスのない女性、心の曖昧な女性、弱い女性、自信のない女性、愛されてこなかった女性、自分のない女性。呼び方は何でもいい。とにかく人生を自分の力で生きたことが一度もない女性である。

そういった女性が婚約や結婚し、人生の絶頂にあるタイミングに寝取るのがとても楽しかったのである。

そんなことが現実的に可能か?と思われるかもしれないが、可能である。

なぜならその女性の中には愛がないからである。自分の中に愛がないし、愛を受け取ったこともないからである。愛のない女性は人生で自己実現をしたことが一度もない。多くは家庭の問題である。

たとえば小学生の頃の夏休みのアサガオの自由研究も、母親に「こうしたほうがいいんじゃない」と言われてきたタイプだ。多くは中産階級の出身で、家が困窮しているというケースはほとんどない(実家が貧乏な場合はもっと別のこじらせ方をしていることが多い)。母親は専業主婦で、特になんの不自由もなく暮らしてきた。多くは母親も同じような芯のない人間である。

部活も、習い事も、塾も、全部母親の言いなりでやってきた。小学校から塾に通い、成績は優秀。学校生活は文武両道にそつなくこなして、慶応やら立教やら青学やらそれなりに優秀な大学に入り、サークルや会社で知り合った男と結婚し、ああ、私幸せだなぁ、と思って旦那と子作りの計画について考えている。そんな女性である。

この女性に決定的に欠けているのは、自分でなにかを達成したことが一度もない、少なくとも達成したという自覚自信がないことである。本当は達成したことはたくさんあるのに、親や周囲の環境が塾やら習い事やらでどんどん新しい課題を積み重ねていくせいで、達成の感動や充実感をただのノルマとしかとらえられなかったということである。本人の素晴らしい努力の結果があるのに、それを自覚していない。成果だけを求められ続けたせいで、感動を置き去りにして生きてきてしまったあわれな女性である。

好きだと思った男性と結婚した。幸せで不自由のない、楽しい生活が待っている。子育ては不安だけど、ふたりで協力してやっていけば大丈夫だろう。そんな風に思っている。だが「大丈夫だろう」なのである。そこには受け身の考えしかない。自覚の有無は別として、結局こういう女性は結婚すら、親から与えられた「ノルマ」の延長線上としかとらえていないのである。もうすでにとっくに親の手を離れ、自分で状況を選び取れる大人なのに、情緒的には親にコントロールされた子どものままなのである。

かわいそうなことだとは思うが、こういうタイプの人は、話せばすぐにわかる。ああ、弱い人だ。この人はいけそうだな、と。不安さは行動に出る。行動に出なくてもほんのちょっとした表情や機微に出る。そういう人は本当にたやすく、場合によってはむしろ独身女性よりもたやすく身体を許してしまう場合がある。多くは不安だからである。将来の不安さに脆弱な愛着形成が耐えられないからである。

こういう人と出会うたびに、私はそういう人が、いちどでも自己実現をした経験があれば、こんなどうしようもない男に引っかからずに済んだのにな、と思う。たとえば自分の意志で部活を選んで、一生懸命に頑張って、結果は出なくても悔し涙を流すとか、なんだっていいのだ。好きな男の子とデートに行ってみるとか、親と喧嘩をしてしばらく家に帰らないとか。1から10まで自分で考えて、自分で行動する経験がそれまでの人生でたったの一回でもあれば、そんな人間にはならなかったはずなのだ。

これが「芯のある女性」は全然別だ。ちょっと話せばわかる。自他境界がはっきりしていて、イエス・ノーがしっかりしている。旦那のことは自分が「品定め」して、付き合って結婚した。旦那も尊敬できるし、自分もやるべきことをやってきた。一緒に頑張ってこう、と思っている。

弱い人との違いは自己実現と自意識の差である。強い女性は私のようなずるい人間に対してのセンサーがとても鋭敏である。絶対に近寄れないし、向こうも隙を見せない。良い意味で人を品定めして生きている。能動的である。そういう人とちょっとした火遊びのようなことはできても、心の奥底に入ってぐちゃぐちゃに踏み荒らすようなことは絶対にできない。ハイエナはライオンのめすにわざわざ近寄ろうとはしないだろう。

ただそういう人はちょっと話したりすれば「あ、この女性は無理だな」と本能的なアラートが出るので、問題なく回避できたのである。

芯のない女性の話の戻ろう。

そういった女性とそもそも接触する機会があるのか?という話なのだが、私は高校〜大学時代は居酒屋や喫茶店でアルバイトをしていたので、カップルで訪れるお客さんも多かった。私は接客のモードに入れば男女問わず好感触を与えることができていたので、わりとかんたんに心に入り込むことができた。

そもそも狙う相手が結婚直前か直後の5歳~10歳年上の女性である。旦那も幸せと忙しさのスピードボールで頭がボケている時期だ。女性側も私がそんなことを考えているとはまったく思っていない。ツイッターなどのSNS程度であれば簡単に教えてもらうことができたのである。まあこのあたりの技術論みたいなものは別にどうでもいい。お客さんと対面でたくさん話す接客業を長く経験してきた人間なら誰だってできるようなことだ。

あとはかんたんだ。旦那と奥さん3人で会って話したりしているうちにSNSのアカウントを交換できる。そのうち旦那の愚痴や結婚に対する不安を聞かされることのようになり、お昼にお茶でもしましょう、となる。毎度お決まりのルーティーンだ。強い女性はこうはならない。なぜなら旦那を「選んだ」からである。同じ旦那の愚痴でもその質感や色合いがまったく違ってくる。従属的な立場からの愚痴と、対等な立場からの愚痴。

あとはうまいようにものごとを運べばいい。一度弱い相手を見つければ、あとは心の奥底に入っていって弱い部分を徹底的に甘やかしてあげればいいだけだ。このときのこつは「徹底する」ことである。私のほうからは余計なことは絶対に言わない。否定も肯定もしない。話を聞いてあげる。ただ「あなたはこのままで素敵ですよ」的なサインを、行動でずっと送り続ける。

実際に素敵なのだ。愚かで、哀れで、幸せな女性。そういう人を見ると私はいつも、アガサクリスティーの「春にして君を離れ」を思い出す。

くり返しになるが、こういうことでかんたんにどうにかなってしまう女性は、ずっと自分の人生に嘘をついてきたのである。だから私やTのようなずるい男に簡単に騙される。それは学歴や家柄や教育の程度や、その人のもつ才能とはまったく関係のないところである。いくら学校や会社の成績が良くても、なにかのものごとに飛びぬけた才覚があっても、自分に芯のない女性はそういったところで簡単に篭絡されてしまう。

そういう女性をてごめにする際はとにかく徹底的に甘やかす。それは完璧でなくてはならない。そのあたりの技巧的な部分はTと一緒に勉強を重ね、たいへんに研鑽してきた。二十歳になるころにはその技術はなかなかの域に達していたと思う。

細かい技術論について話すことは求められていないと思うのでやめておくが、そういう状態に持っていくのに言葉を尽くす必要はない。「旦那さん、本当に好きなの?」なんてことは絶対に言ってはならない。ただ徹底的なまでに献身的に甘やかしてあげればいいだけなのだ。弱い女性の心を、時間をかけて、丁寧に、徹底的にどろどろにしてしまうのである。心がだいたい3日目のカレーくらいのやわらかさになったら食べごろである。

旦那のことは好きだし、愛していると思っていたけど、あの人が最後に朝ごはんをつくってくれたのはいつだろう。こんなに好きって言われて、嫌な顔ひとつしないで夜遅くまでずっと話をしてくれて、疲れた態度を出さないでいてくれたのっていつだろう。こんなに受け入れてくれたのっていつぶりだろう。

そうしてヒラメの煮こごりのようになった心はかんたんに前後不覚になる。そもそもそういう女性は子どもの頃の情緒形成の段階から心の土台が不安定なのである。私は社会化の過程でちょっとだけ外殻が固くなった心のやわらかい所をもう一度「おもて」側に引っ張り出してあげたたけだ。それがその人の本当であり、真であり芯である。自他境界のない甘えた心。それが「芯のない女性」のすべてである。

そして一度か二度楽しい夜を過ごして、そういう人は「こんなことをしてはいけない」と思い、またいつもの生活に戻っていく。そういう時には絶対引き止めない。残念そうなそぶりをほんのわずかに忍ばせるだけだ。そして彼女らはちょっとした罪悪感をもったまま日常生活に戻っていく。私やTに甘やかされた記憶で頭がおかしくなったまま。

そうしていったん心をどろどろにされてしまうと、表面上の生活は今までと同じ生活を送れても、心の内面の部分では決定的に以前の生活とは違ってしまう。そこには私やTといった、悪魔のようなずるい人間の楔が存在してしまうのである。

そうして一度軛につながれてしまえば、もうおしまいである。

だいたい多くの「ふつうの」女性は、そういうちょっとした遊びのようなものは時間がたてばカラッと忘れてしまうことが多い。だがここで話しているような自分の人生に嘘をつき続けてきたような女性は別である。私たちに致命的に甘やかされたことを忘れられない。なぜ忘れられないかというと愛された経験がないからである。すくなくとも愛された自覚がないからである。そういう人は一度でも徹底的に自分を甘やかしてくれた存在を忘れることができない。

彼女たちは私との関係が終わった後、私やTのことを隅に置いて、とりあえずは忙しい生活のサイクルに戻っていくだろう。だがふと、必ず(必ず)私やTのことを思い出すことになる。子供が生まれて子育てに忙殺される瞬間。夫が残業続きでろくに家にいない瞬間、仕事に疲れた夫が自分を求めずに先に寝る瞬間。深夜にひとり夜泣きがひどい子供の世話をしている瞬間。

必ずだ。

そして彼女たちはちょっとしたタイミングを見つけてまた私に会いに来る。
私はそのときにとてつもない恍惚を覚える。「こんなに幸せな人生を送ってきたように見えるこの女性も、ろくでもない俺と変わらないんだ」そう思えるからだ。

下劣なことを言っていることはわかっている。でもこの感情を止めることはできない。人の心のいびつさは楽しいのである。それが幸せそうな人であれば、豊かそうな人であればあるほどその落差はたのしいのである。

このようにして、私とTは競うように女性を寝取り、その数をカウントし、膨大な経験と知識を熱心に交換しあい、人間のこころの多種多様ないびつさにひたむきに向き合っていった。

彼女たちは今までの人生で、決断すべき場面で決断してこなかった。または、その決断を人任せにしてしまった。だから私やTのようなほんとうにろくでもない男に心やからだを許してしまうのである。

私とTは彼女たちにちょっとした気付きを与えるようにしていた。それは「あなたは本当に今の旦那さんを愛していて結婚したんですか?」という気付きである。

それは言葉に出さなくてもいいものだ。所作でも、生活の中のちょっとした動作でも、むしろ言葉に出さないほうがいいものだ。言葉に出さなくても、それはサインとして、しるしとして、どんなかたちでも残すことができる。

たとえは(ただ男性に対して臆病なだけという意味で)お堅いように見える女性や、破天荒な言動が目立つような人は、一度身体を許してしまえば心の内壁はとても脆い。涼宮ハルヒみたいなのだ。ああいうのは発砲スチロールのようなもので、最初の一度、強い力を入れてひびを入れてしまえば、あとは端からもろもろと崩れていく。

そういう女性に徹底的に生活の楽しさを叩き込んであげる。朝ごはんをつくってあげる。洗濯物をたたんであげる、お茶をいれて、一日中優しいことばをかけて丹念に丁寧徹底的にでろでろに溶かしていく。ちょっと豪華な夜ごはんをつくり、時間をかけた丁寧な夜をこなして、やさしいことばをかけて帰す。隙間なく徹底的に献身的に尽くす。そうすると芯のない女性の脳みそは簡単におかしくなってしまう。

あとは言い訳がましいのだが、こういう女性は別に私やTのような人間が悪さをしなくてもどこかで悪い誰かに引っかかる。たとえば結婚詐欺や訪問販売、歳をとって認知力が落ちてくれば振り込め詐欺に騙されるだろう。そういうものであると確信している。

これは男も同様である。同じように芯のない男も世の中には山ほどいる。だが女性は女性ゆえにずるい男に騙されやすい。

ゆめゆめ気を付けてまいりたい。


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