梟訳今鏡(9)すべらぎの中 第二 白川の花の宴
白川の花の宴
鳥羽天皇は先帝(堀河)の第一皇子でいらっしゃいます。御母君は贈皇太后宮苡子様と申し上げまして、大納言実季様の娘君でいらっしゃいました。
さて、この天皇は康和5年1月16日にお産まれになりました。そして8月17日に東宮となられ、嘉承2年7月19日に帝位につかれました。
それから16年間ほど世を治められまして、ご自分の第一皇子(崇徳)に譲位なさいました。
祖父にあたる白河院のご存命の間は、政治というともっぱら院の思うままでしたが、院が崩御されてからは、ただもうこの鳥羽院が政治を執り行われるようになったんですよ。その治世は28年に及びました。
また白河院がご存命だった頃は、白河院を本院、鳥羽院を新院と申し上げましてね、同じ三条室町殿の御所の中で院があちらにこちらに、といった感じでいらっしゃいました。
それからこの御所には女院の待賢門院様もおいででして、本院、新院、女院と三院が揃っていて本当に華やかなことでありました。
さらにこの御所では女院の皇子や皇女たちもみんな一緒でいらしたんですよ。
白河院と鳥羽院はいつも同じ牛車にお乗りになっておでかけなさいました。
そのため法皇のお車ではありますが、雑役の召使いとして御随身が付き添っていたりしたんです。
さて、これはたしか保安5年頃のことでしたかね、閏2月があった年に、白河の地でお花見をなさるということになって、そちらへの行幸がございました。
これがもう、世にまたとないくらい華やかなご様子だったんですよ。
白河院と鳥羽院はいつも通り同じ牛車にお乗りになりまして、そのお車にお供した御随身たちはあざやかな錦や刺繍で飾った装束をいろいろとたくさん重ねて着ていて、行幸についてきた殿上人や公卿たちも負けじと様々に華美を極めた狩衣を召し、とても言葉では表しきれない程すばらしかったんです。
この時雅実様も馬にお乗りになって参加していらっしゃいまして、この方は直衣に冠のお姿でしたよ。
また待賢門院様のお車は両院のお車のすぐ後ろに続いておられました。
待賢門院様の女房たちはお車の出衣の袖や裾を銀糸や金糸を使って繕い直されていたんです。
それでもやはり、女院のお車や出で立ちは格別にすばらしくてですね、まずお車の後ろ側には全て紅色の生地10枚を重ねて出衣とし、さらに紅色のツヤ出しした衣や桜萌黄の上衣、赤色の唐衣に銀や金で箔付けして、窠の紋を描いて、さらには地摺りの裳袴にも箔付けをして、それには州浜や鶴、亀を描いて、腰のあたりは銀で箔付けし、上刺しという飾り紐にも玉を通して飾り立てていらっしゃったんですよ。
そうそう、この女院の乗られていたお車はかつて吉田の斎宮妍子様のものであったとかお聞きしています。
さて、このお花見行幸では出車が10輌ありまして、女房たちは全員あわせて40人ほどいらしたわけです。
それぞれが思い思いに考え抜いておめかしなさって、この日ばかりは過差の禁制も大目にみられていたんでしょうねぇ。
例えば、ある女房は紫、紅、萌黄、山吹、蘇芳の5つの色目をだんだん淡くなっていくように25枚ほど重ねて、さらにそれぞれの生地に模様を描き、金箔を散らした打衣、上衣、裳、唐衣も重ねて着ていたりしていたんです。
またある女房は柳と桜の色目の生地をまぜて重ね、表には織物、裏はツヤ出しした打物にして、裳の腰あたりにはあざやかな錦を玉で飾り立ててあったりして、まさにあの、古今和歌集にある「玉にもぬける春の柳か」という歌や「柳桜をこきまぜて」という歌を思わせるようなお姿でした。
他にも、裳を葡萄染の生地へ海の風物を描いて、そこへ鏡の模様を刺繍して透かせ、月が映っているような感じに仕立てあげている女房もいました。まるで古今和歌集の「花の鏡となる水は」の歌のようでしたよ。
それから、唐衣と打衣に太陽を描いて、「ただ春の日をまかせたらなむ」という歌の趣向を取り入れている方もいましたかねぇ。
ああそうだ、錦で唐衣を仕立てて、桜の花緒をつけ、その上に薄い錦の布を浅葱色に染めたものを重ねて「野辺の霞はつつめども」の歌を再現する方もありました。その方は袴もツヤツヤの打物にしてあって、それをさらに花飾りで飾りつけるなどしてあって、まさに「こぼれてにほふ花桜かな」という感じで、とても華麗でございました。
この素敵な装束を着ていらした方は鳥羽院の第七皇子、覚快法親王の御母君でいらしたかと思います。この方のお車に付き従うお供の者たちの狩衣や袴なんかも様々な模様が描かれていたりして、それだけでもまばゆいばかりの華やかさであるのに、お車の牛をひくための縄さえ足津緒というものでしたかね、あざやかな色の紐をよりあわせて作ってあって、まるで天皇の御簾につけられたかけ緒のように、金属製の房飾りなんかがゆらゆらと美しく、なにもかもいつもとは違ってきらめいて見えたことでした。
また摂政殿(忠通)もこの行幸にお車に乗ってご参加なさっていましてね、その御随身たちの華やかさはとても話し尽くせない程でしたよ。
さて、このお花見行幸ではまず法勝寺の方へお渡りがあり、そちらを一巡りしてお花見を楽しまれ、その後に白河南殿の御所へお渡りになられたんです。
白河南殿では花の宴が開かれまして、公卿たちのいる席には度々御盃がすすめられていました。そして、公卿たちはそれぞれお花見の歌を詠んで院にたてまつられていました。
その際の序文は花園左大臣有仁様がお書きになられたそうですよ。また、この宴で詠まれた鳥羽院の御製のお歌なんかは勅撰の金葉和歌集などに入集しているんだとか。
それからこの時に女房たちが詠んだ歌などもいろいろと素敵なものがあると聞いていますよ。
例えば、待賢門院兵衛の
よろず世の ためしと見ゆる 花の色を
うつしとどめよ 白河の水
などですね。
そうそう、この行幸で立ち寄られた法勝寺の桜はまるで雪の降り積もった明け方のように見えるほど咲きほこっていたそうでして、さらには前もって他のところから花びらを集めておいて敷き詰めたんでしょうかね、牛車につながれた牛のひづめさえ隠れ、轍ができてしまうほどに花びらが積もっていたみたいです。梢に咲いた桜の花から舞い散る花びらが、まるで雪が降っているように見えたとか伝え聞いています。
話に聞くだけでもすばらしさが伝わってきますのに、まして実際その場でそれをご覧になった方々はさぞかし感動したことだろうなぁと思われますよ。
このお花見行幸から後、いつ頃だったかは不明瞭ですけれど、今度はお雪見の行幸をしようということになった年があったんです。
ですが、予定当日になる度、晴れに晴れて雪見ができそうにない日が続き、なかなか出発できなかったんですよね。
それで、今日こそは今日こそはとお思いになっていらした折、急に行幸が開始されたんです。
このお雪見行幸では都の西側にある山々とか、舟岡という丘陵へお渡りになられました。
白河院と鳥羽院は都の中までは同じお車にお乗りになっていらっしゃいまして、洛外では、鳥羽院の方は御直衣にツヤ出しした紅色の下衣を裾から少し出して、お馬にお乗りになっておられました。そのお姿は本当に清新であり、絵として描いて残しておきたいほどでしたよ。
そういえば、このお雪見の時の二条の大宮令子様の女房のお車が素敵でしてね、あざやかな菊や紅葉の色目のお召し物のお袖や裾を御簾から押し出して、それをはさみこむように白い布を重ねて縫い合わせてあったんですが、わざとほころびを多く、縫い目を少なくして、綿入りの衣から綿がはみ出てしまっている感じに、白い布からあざやかな色目の生地がチラチラ見えるように仕立ててあったんですよ。
それがなんともすばらしくって、まるで菊や紅葉が雪の上に振りおりたように見えました。
そういった工夫を凝らした素敵な出車が5輌も連なっていたんですよ。本当、目の置き所に困らないくらいにすばらしい様子でございました。
さて、そろそろ鳥羽院のお話に戻りましょう。この院はすごく好色というわけでもなく、非常に端然としていらっしゃいまして、ご容姿もそれはそれはお美しくいらっしゃいました。
また造仏や写経などをなさったり、偉い僧侶になにかにつけて祈祷をさせたりされていました。
そうだそうだ、この院は笛をなんとも言い難いほど上手にお吹きになられていたんです。その腕は父院(堀河)にもお劣りになられなかったのではないでしょうかね。
本当に音楽には高い関心をお向けになられていました。院ご自身が奏でられる笛の音も情趣があり、聞いているだけで心が澄んでいくような感じで、素敵でありました。
そういえば、あの内大臣公教様や右大臣公能様、中納言の伊実様や成通様なんかもみんなこの院の笛のお弟子さんだったそうです。
そうそう、この院が長らく体調を崩されていらした時、どこか心細くお思いになられたんでしょうね、たしか徳大寺左大臣実能様宛に桜の枝を添えておくられたお歌がございました。
心あらば 匂ひを添へよ 桜花
のちの春をば いつか見るべき