梟訳今鏡(14)すべらぎの下 巻三 大内わたり、内宴
大内わたり
遠くも近くも見たり聞いたりした過去のことをお話しましたが、今の世の中のことについては憚りも多いことですし、みなさんもよく知っておいででしょう。
ですが、まあお話の続きということで申すことにいたしましょうか。
現在の院(後白河)は鳥羽院の第四の皇子で、御母君は待賢門院璋子様です。お産まれは大治2年であったかと思います。
鳥羽院には他にもたくさんの皇子がいたわけですが、その中でこの方こそが帝位を譲られ、今日まで国を治められることになったんです。本当に並はずれたご幸運ですよね。
保延3年12月の読書初めの儀には式部大輔敦光という大学者が先生役として侍読を務めたとか聞いています。
この折には公卿、殿上人たちも参られて、漢詩文の披講まであったみたいです。
最近はそんな作文までする読書始めなんて聞いたことがないですが、この時はそこまでされたそうなんですよ。良い先例を作られたものだなあと思います。
本院(後白河)は保延5年12月27日に御年13歳でご元服なさいまして、久寿2年7月25日に御年29歳で帝位を譲られました。これは唐国の太宗が即位されたご年齢と同じだそうですよ。とてもすばらしい感じがしますよね。
即位後、父院(鳥羽)のお指図により徳大寺の内大臣実能様を連れ立って里内裏となる高松殿へお渡りになり、夜になってから公卿たちを引き連れて忠通様の近衛殿へ長く筵道を敷いて渡られました。
そして同年の10月26日には御即位の儀式がございまして、この時に東宮も決められたんです。
大嘗会なども終わり、年も変わって保元元年、鳥羽院の皇女である姝子様が東宮(二条)の元に参られました。姝子様は高松院と申す方のことですよ。
前斎院の上西門院統子様という方がいらっしゃったのですが、この方を姝子様の御母君となしていらしたとか。姝子様の実の御母君は得子様でございますから他の母君を増やさなくても良いんですけど、もう少し待遇してあげたいという父院側のお気持ちがあったからでしょうかねえ。
さて、この年の5月末から鳥羽院の患っていらしたご病気がどんどんお悪くなられ、ついに7月、崩御されてしまわれました。
そんな中、世間では物騒な噂がささやかれるようになり、なんとも恐ろしげでものものしい軍勢などを都で見かけるようになって、それからいろいろと乱れが起こりまして、天皇であった本院が勝利なさるなどしました。それで論功行賞が行われたりしたんですが、この時のことは詳細に申すのも難しいですし、皆さんも聞いたことのある話だろうと思われますのでここでお話するのはやめておきましょう。
本院が天皇として治められていた御世は昔の延喜、天暦の治にも劣らないほどで、またかの後三条院にならって記録所をおかれ、その長官には左大将公教様を任命し、その他弁官3人と寄人という職員を置かれまして政務を執り行われました。
さて、鳥羽院の崩御の影響で諒闇の期間が続き、本当は前年の秋に行われるはずだった司召しの除目が翌年の3月になってようやく行われたんですよ。
それから同じ年の10月、内裏の造営終わって、天皇であった本院が渡られました。その殿上や門などの額は関白忠通様がお書きになったんですよ。その後造営に関わった国司など72人くらいの人々が官位昇進されたとか。
最近では造営後のこうしたはからいなんてなかったですから、澄んだ黄河の如く珍しいことだなあと思われました。
天皇時代の本院は清涼殿と藤壺を兼ねてお住まいでいらっしゃいまして、その女房たちは登花殿近くに局を持っていました。中宮忻子様は承香殿においででして、この方の女房たちは麗景殿に局をかまえていました。
また、内大臣公教様が入内させられた女御の琮子様は梅壺にいらっしゃったんですよ。この方の女房たちは襲芳舎に局を与えられていました。
この襲芳舎というのはあの神鳴りの壺と呼ばれる場所のことですよ。
また東宮(二条)は桐壷に住んでおられまして、その女房たちは桐壺の北側に局をかまえていたんです。
関白忠通様は宣耀殿にて泊まりでお仕事をなさっていたんですよ。今まで摂関家のお邸が里内裏になることはありましたが、こんなふうに摂関家の方が内裏に住まわれることなんてほとんどなかったんですけどね。非常にイマドキな感じで、なかなか珍しいことだと思われました。
そうそう、最近弓矢などをむき出しにしたまま歩いている人を見かけたことあります?
ないですよね。それはですね、本院が天皇であった時代より武器はなにかものに入れたり、布に包んだりして隠して大路を歩くようになったからなんです。
それに、あの頃は都のすみずみまで鏡のようにピカピカにきれいになって、一切汚いところがなかったんですよ。末法の世とはいえ、ここまですばらしく治まっている世の中というのは本当にすばらしいことですよねえ。
内宴
こうして年も変わって保元3年の1月には朝覲行幸がありまして、天皇であった本院(後白河)は美福門院得子様のもとへ行幸されました。
得子様は本院の実母ではございませんけど、近衛天皇の崩御後も国母という扱いはそのままだったんですよ。大変すばらしいお栄えぶりですよねえ。
また東宮の朝覲行啓もありまして、この時は女院(得子)の皇女が東宮の御母君として朝覲のあいさつを受けられました。この皇女というのは八条院暲子様のことでしょうね。
さて、その月の20日には内宴が催されました。この行事はもう100年ほど見られなかったというのに、本院はこれを復活させたんです。この上なく立派なことですよね。
この内宴という行事では漢詩文を作るんですが、この折の題は「春は生る聖花のうち」とかであったとお聞きしています。関白忠通様を初め、7人の公卿が漢詩を作ったのだそうです。
この宴での右大臣基実様は青色の袍を着用されていたそうで、春の宴である内宴の行事にピッタリで素敵な色だったことだろうなあと思われます。
それから綾綺殿で女楽もありましてね、その10人の舞姫たちが袖を振る様子といったら、まるで漢女を見ているような心地がするほどだったとか。
そうそう、この年に内宴が開かれたとは言いますものの急なことだったらしく、実際の舞姫を用意しようにも間に合わなかったんだそうです。ですからその代わりに覚性法親王が稚児をたてまつられたんですよ。
漢詩の披講は仁寿殿で行われました。その際に尺八というずっと昔の笛が吹かれたそうです。まことに目新しいことだなあと思いました。
さて、6月には相撲の節が行われました。これも長らく絶えていて、最近では見かけないような行事だったんです。この時は17番勝負でした。
昔の理想的な事柄をこのように復活させて行なわれるなんて、なかなかないことですよ。
本院のご宿縁がすばらしくていらっしゃる上、少納言通憲という、この頃にはもう出家して法師となっていたのですけど、この方がかの鳥羽院の時から朝に夕に出仕して、本院が即位された時にはもっぱら政務を執りしきって昔のことを再興し、新しいことも手間取ることなくすみやかに処理して行なわれていたため、この御世では故事復興というすばらしいことが何度もあったのだと聞いています。
本院の乳母は修理守基隆の娘や大蔵卿師隆の娘など何人かいたのですが、あるは出仕をやめ、あるは亡くなるなどして、ただ紀の御(紀伊の局)という方が本当の乳母だと言われていたんです。そして通憲様はこの方の夫だったのですよ。紀の御は通憲様の子をたくさんお産みになられて、この当時は乳母も務めていらしたというわけです。その上この方は乳母を使者とする八十島の使いという役目まで務められたりして、もう並ぶ人がいないほどであったんですよ。それからこの方は
すべらぎの 千代のみかげに 隠れずば
今日すみよしの 松を見ましや
といったお歌をお詠みになったとも聞いています。本当に頼りがいのある女性だったことでしょうねえ。
さて、通憲様は多くの漢籍を習い、その上大和心もすぐれていらしたんでしょうか。天文などの占いさえ修得され、本当に才覚のある人でした。その立派な徳の高さといったら!
それほど齢を重ねられていた方というわけでもありませんでしたし、今もまだ生きていらしたならどれほどすばらしかったことだろうと思いますよ。
天皇の傅という教育係は今までもいなくはなかったのですが、この通憲様は特別でいらっしゃいまして、さらにはその御子たちも少将や中将といったとりとめのない官職などではなくて、四位の少将、中将に様々な国の受領を兼任するほどの地位だったんです。
……ああ、やっぱりそういったことが目に余るくらいになっていったんでしょうかね。羽のあるものは4つの足を持たず、角のあるものは牙を持たないと言うように、なにもかも完璧に備えた人なんているはずがないんですよ。専門外である天文まで学ぶなんて慎むべきだったということかもしれませんね。
万事につけすばらしい方でいらっしゃいましたのに、まさかあんなことになってしまわれるなんて……。惜しいことでしたよ。
さて、8月16日、東宮に位が譲られました(二条天皇)。ですから本院が帝位につかれていたのは3年ばかりだったということです。上皇となって自由なお立場で政治をなさろうとしたんでしょう。
それにしてもこの方が院となられてから今日までには様々な天皇が位につかれましたよねぇ。院であるとは申しましてもこれほどまでに権威を持っているなんてめったにないことでございますから、本院以上にすばらしい人なんているはずがありませんよ。
また、本院は現世のことばかりでなく、来世のための仏道修行もしっかりなさっておられまして、8巻のお経を暗誦されたりしておられます。きっと前世からの宿縁がおありなのでしょう。
また1000躯の千手観音をおさめる御堂をお作りになりまして、天竜八部衆という仏の守護神の像などもまるで生きているかのように、今にも動き出しそうな感じで作られてあったんですよ。
あの鳥羽院の千躯観音の御堂でさえなかなかないものでございますから、この本院の千手観音の御堂こそ、通りいっぺんのこととは思えませんよね。
そうだ、那智にある熊野神社を都へ分社なさったのも本院なんですよ。遠くまでお参りに行くことのできない人々にとっていかにすばらしい行いとなったことでしょうか。
それから本院は日吉神社も都に勧請されたんですよ。神のこと、仏のこと、どちらもそれぞれ興されようとなさるなんて、賢明なお心ばえだなぁと思われました。
年ごとに熊野詣でをされたり、比叡山や高野山へ行幸されたりと、このように信仰心が深くておいでなのはきっと前世からの良い宿縁なんでしょうね。
さらに現在はご出家なさって法皇と申しておられますから、もうどれほど徳が高くていらっしゃるんでしょうか。
そんな本院の皇子女たちも各々の分野で才能がおありだと聞いています。
こんなの誰もが知っていることですから、わざわざ詳しく申さなくともいいでしょうね。ですがキリが良くないですから、色々と申し上げましたばかりですよ。