梟訳今鏡(16)すべらぎの下 巻三 花園の匂ひ

花園の匂ひ

二条天皇の御母君懿子いし様は、天皇をお産みしてからすぐお隠れになってしまわれました。ですから美福門院得子なりこ様がこの天皇を養育されたんです。

天皇は幼い頃、仁和寺にいらっしゃいまして、覚性法親王のお弟子となられていました。その時に倶舎くしゃやそれに関連する巻物をたくさんお読みになられ、また倶舎論を説きあらわした仏書さえ受け継がれなどしていて、智恵深くいらしたんですよ。

そんな折、本院(後白河)が帝位につかれましたので、突如この方が当今の第一の皇子となったんです。さらには女院であった得子様の養子でもありましたから、当時鳥羽院はこの方のことをまるで若くしてお隠れになった我が子である近衛天皇の代わりのようにお思いになって、この方を位につけようと色々取り計らわれたんですよ。
それでお寺から都の方に戻られ、まず東宮位に、それから帝位にとつかれたんです。

この天皇は「末の世の賢王」でいらっしゃったんですよ。お志が深く、少々頑固な所もございましたとか。
そんなすばらしい天皇でありましたのに、御年23歳の時にご病気が重くなられたため、ご自身の皇子(六条)に帝位を譲られました。
さらに悲しいことに、譲位後は何年も生きることはおできになりませんでした。
良い人というのは長生きできないとか言いますからこうも短命でいらっしゃったんでしょうか。末法の世というひどい時代であるとはいえ、なんとも残念でなりませんよ。
もしくは、天皇は100代までと限りあるものでございますが、そんな中であまりに早く位につかれたからなんでしょうか。
それとも院が譲位後も政治をなさるなんてあたりまえのことでありますのに、この天皇はそれをご不満に思われ、ご自分で過去の戦乱によるさまざまな世の乱れを正そうとされていたんですが、天皇が自ら処理するにはあまりにもひどい状態だったからでしょうか。
あんなにもすばらしい天皇であったのにと世間の人々もその崩御を惜しんだとか。

諡号は「二条天皇」と申しました。二条というのは昔の后の名前にも使われていますが、そもそも性別が違いますからね、混同することはないでしょう。
でも同じ名前がくりかえし使われるというのは前例がないんじゃないでしょうか。

さてこの天皇の御母君懿子様は大納言経実つねざね様の娘君でして、御母君は東宮大夫公実きんざね様のご長女です。
公実様には娘君が2人いらっしゃいまして、そのうちの次女の方はあの花園左大臣有仁ありひと様の妻でいらっしゃるんですよ。
それで有仁様は義理の姉の子である懿子様を養女とされ、本院がまだ今宮と申しておられた頃に参らせたんです。しかし懿子様は天皇をお産みしてからすぐお隠れになってしまわれましたから、その後に后の位が贈られました。ですので贈太皇太后宮懿子様と申し上げるんです。
その実父である按察使大納言あぜちのだいなごん経実様もその死後正一位太政大臣の位を贈られたとか。どちらも死後こうした高い位を贈られるとも知らずに亡くなられてしまわれたのは残念ですが、それにしても高貴な位を贈られたものですよねぇ。きっとご子孫たちの栄誉となることでしょう。

はかなく消えてしまわれた露のような命でございましたが後に后の位を贈られましたからね、残る称号は同じですので、昔語りとなってしまえば生きて后に立たれた場合と同じくらい立派でいらっしゃるんですよ。

さて、二条天皇から位を譲られた皇子というのは現在の新院(六条)のことです。
まだあんなに幼くいらっしゃいますのに上皇となられ、六条院と申し上げます。二条院には皇子が2人おいでだったのですが、そのうち新院は後の方にお産まれになった方なんです。

二条院の2人の皇子は御母君が別々でいらっしゃいまして、新院の方の御母君は徳大寺左大臣の娘君と申しているようではありますが、正式に女御として入内されたわけではなく、人目を忍んでこっそり二条院のもとへ参られたみたいなんですよね。ですから新院の実の御母君についてはよくわかりません。
帝位につかれるべき方として見出されてからは中宮育子様によって養育されましたため、この育子様を母后とされているんです。

新院は永万元年6月25日、御年2歳にして帝位につかれました。ご在位期間は3年ほどであったかと思います。
本院のご意向で東宮(高倉)に譲位されましたので、まだ幼くいらっしゃったんですが、上皇となられたんですよ。本当に並々でない方です。

御年2歳でのご即位なんて、これが初めてなんじゃないでしょうか。ついこの間まで御年3歳で即位された近衛天皇が最年少だと思っていたんですけどねぇ。
幼帝というと、これまでの天皇は大体5歳ほどでの即位が多いみたいです。唐国では1歳で帝位についたなんて例もあるそうですよ。

さて、新院の実母については先程申しましたから、中宮育子様についても少しお話ししましょうか。育子様は忠通様の娘君でいらっしゃいまして、前上野守源顕俊あきとしさんの娘君の所生でいらっしゃいます。
育子様は夫である二条院に先立たれました後も天皇の御母君としてなお内裏においででしたので、これといって変わったようなことはございませんでした。

そうそう変わったところがないといえば、賀茂神社での臨時祭の折に四位の陪従という役目に清輔きよすけという者も任命され、参内したそうなんですが、先帝(二条)の頃は昇殿を許されていたのに、この時はまだその許可が下りていなかったんです。
それでどうしたものかとウロウロして、北側の朔平門の方へ歩いていき、后のいらっしゃる御殿やその女房たちの局が連なる局町などを見たり、再び清涼殿の方へ戻って遠巻きに殿上を見渡したりなどしていました。
するとそこは先帝の御世と変わったところは1つもなく、親しい者たちの顔も何人か見えましたので、后宮方の人になにか申し上げる際、檜扇の片方の端を折ってそこへ歌を書きつけ、女房たちのもとに届けさせたんです。たしか

むかし見し 雲のかけ橋 かはらねど
わが身ひとつの 途絶えなりけり

という歌だったと思います。大変上品なことだなぁと思われましたよ。