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梟訳今鏡(8)すべらぎの中 第二 たまづさ、所々の御寺

たまづさ

堀河天皇は白河院の第二の皇子でいらっしゃいました。
御母君は贈太皇太后宮賢子けんし様です。賢子様は関白左大臣師実もろざね様の養女でいらっしゃいまして、実父は右大臣源顕房みなもとのあきふさ様です。

この天皇は承暦3年2月10日にお産まれになり、応徳3年11月26日に御年8歳で帝位につかれました。非常に上品な方で、風流心も深くいらっしゃいましたよ。中でも笛をとても上手にお吹きになられましてねぇ。朝夕に管弦の催しを開かれておりました。
夜中に滝口の武者たちの名対面(点呼)がある際にも、「笛の調子をもっと高く、高く!」と仰せられ、そのまま夜が明けてしまうこともありましたよ。

この御世に宮仕えをしていた笛吹きの殿上人や、笛の師匠なんかはみんな堀河天皇から賜った笛を「あの御世に賜った笛なんだよ」といって今もずっと伝え続けていて、時々にそれぞれの笛を見せあっているとか。

特に時元ときもとという笙吹きは天皇のお気に入りで、夏には御厨子所みずしどころから氷を賜り、氷のない折には

堀河「暑いだろうから、涼むための扇をあげるよ」

と扇を賜っていましたよ。
他には太政大臣宗輔むねすけ様、この当時は近衛府のすけであった方が天皇の御前で夜通し笛を吹いて過ごされたとかいうこともございました。

さて、この天皇は笛だけでなく和歌も非常に好んでおられました。
康和4年5月頃、退屈でいらっしゃったからでしょうか、歌人の男女をそれぞれ集められまして、彼、彼女らに恋の歌を読み交わさせてその様子をご覧になる、という催しをされました。
男性側には大納言公実きんざね様、中納言国信くにざね様を始め、俊頼としより様などの名高い歌人たちがいて、各々の用意した薄様の紙に歌を詠んで女性側におくられました。
女性側には周防内侍すおうのないし様、四条宮しじょうのみや筑前ちくぜん、高倉一の宮の紀伊きい、前斎宮ゆりはな、皇后宮(篤子とくし)の肥後ひご摂津せっつの君に仕える女房たちがいて、我先にと返歌をしていたそうですよ。女性側は恋の恨みの歌などを詠んでおくっていましたねぇ。
この催しは「堀河院艶書けそうぶみ合わせ」といって、今なお語り継がれ、その中で出たたくさんの良い歌は勅撰集なんかにも入ったりしているようです。
艷書合わせでは清涼殿の東庇にある二間で歌が天皇に披露されたそうです。

他にも、当時評判だった歌人14人に1人100首ずつ歌を奉らせることもなさいました。男、女、僧など、そこに選ばれた歌人たちはみんな有名な歌人でいらっしゃいましたよ。
この100首の歌のテーマは中納言匡房まさふさ様がお決めになられたとか。
最近は和歌のマニュアルとしてこの「堀河百首」が活用されているみたいですね。

さて、天皇は尊勝寺を造営されました時に殿上人全員に花鬘けまんという飾り物を寄進するよう申しつけられたんです。
しかしこの少し前に歌を100首作るよう命じられていた殿上人の俊頼様が、花鬘寄進と歌作りに相当お悩みになられていたらしく、なにか詠もうとすると必ず最初の5文字に「花鬘の……」と置いてしまうようなご様子だったんですよ。
それを聞いた天皇はさすがに気の毒にお思いになって、俊頼様の花鬘寄進だけは免除されたそうです。

ああそうだ、これはいつ頃だったでしょうかね、確か紫宸殿ししんでん仁寿殿にんじゅでんに天皇がいらっしゃった時に、ふと清涼殿の方をご覧になりますと、誰か殿上人が殿上の間から参ってくるところでしたので、天皇が

堀河「雲のうへに 雲のうへ人 のぼりゐて

と仰せられましたら、その殿上人、

しもさぶらひに さぶらへかしな

と続けられたということがありましたよ。
この殿上人は俊頼様だったかと思います。
これは1首の歌としては同じ語が連続しているため、流暢な歌とは言えませんが、この機転のきいた返しは素敵な感じがしますよね。

歌の風情がいたずらに消えてしまうため、連歌れんがというものはあまり重んじられなかったと聞いていましたけど、どういうわけか金葉和歌集きんようわかしゅうには大したこともない連歌が多くのっているみたいです。ふとした時にできた作が惜しまれたんでしょうねぇ。
連歌といえば基俊もととし様の作の

月草の 移しのもとの くつは虫

というものなどは優美な感じがします。それから

唐門からかどや この御門みかどとも叩くかな

というのもありました。
まだ忠実ただざね様の娘君でしかなかった高陽院泰子かやのいんたいし様のために俊頼様が作って差し上げた歌の手引や連歌などについて書かれた書物の中には、近衛府の中将道信みちのぶ様の連歌に伊勢大輔いせのたいふ

こはえもいはぬ花の色かな

と付け句されたというお話がのっていましたけど、これも大変優美なことですよね。
こういうわけですし、俊頼様は連歌を全くお認めにならなかったというわけではなさそうです。

ついでに申しますが、和歌というものはほとんどの場合、見るもの聞くことにつけて前もって詠んでおくものなんです。これを擬作ぎさくと言います。その場でとっさに詠む、なんてことはなかなかありません。
だから個人集の中には聞いたことのあるような歌題が詠み集められているんでしょうねぇ。

さて、堀河天皇のことに話を戻しましょう。
天皇の后についてはあれかこれかと考えられていたわけですが、この時には天皇の御叔母にあたられる前斎宮の篤子様が女御として入内し、中宮に立たれました。
天皇とのお年の差は小さくなかったんですが、天皇は幼少の頃からこの篤子様にすっかり心を奪われておいでで、「ただもう叔母上を中宮に」との思いでいらっしゃったのかもしれませんねぇ。
一方篤子様は内裏に向かわれる夜も「ひどく不釣り合いだわ」と言って牛車にさえなかなかお乗りになられなかったんですが、それでも天皇は夜が明けるまでずっと篤子様のことをお気にかけられて、待ち続けていらしたとか。
その後に鳥羽天皇の御母君となられる苡子いし様が女御として参られたんです。
この苡子様は白河院に大切に育てられた方で、華やかな感じでしたけれど、一方の篤子様は尽きない嫉妬心にお悩みになっておられましたよ。
苡子様が亡くなられた後に天皇が

あづさ弓 春の山べのかすみこそ
恋しき人の かたみなりけれ

と思いを歌に詠み込まれたことはなんとも情趣があって、しみじみと悲しく思われたことでした。

それにしても末法の世の天皇にも関わらず、21年も長い間世を治められたなんて、なかなかあることではないですよ。しかもこの御世にはすばらしい人材が豊富でありましたから、本当に輝かしい御世でございました。天皇も、

堀河「左大臣には俊房としふさ、参議には匡房と通俊みちとし、蔵人頭には季仲すえなかがいる。昔の賢帝たちの御世にも劣らない時代だね」

と仰せられていたとか。また、それぞれの専門分野の学者たちの中にもすぐれた人が大勢いたと聞いていますよ。
ただ、そんなすばらしい御世の天皇がまだ30歳にも至らないうちに崩御されてしまったことは世間の人々を非常に悲しませました。

さて、この天皇のことについては、讃岐典侍さぬきのすけと申す女房が詳細に書き記した書物があるとうかがっております。
私は一度だけ、人が読んでいたのを聞いたことがありますがねぇ。このみなさんの中にも読んだことがあるという方がいらっしゃるんじゃないですか?


所々の御寺

堀河天皇の御母君でいらっしゃる賢子様は権中納言隆俊たかとし様の娘君と、六条右大臣顕房あきふさ様の間にお産まれになった方で、その後師実もろざね様が養女になさったんですよ。

賢子さまは延久3年3月9日、白河院がまだ東宮でいらっしゃった頃に御年15歳にして御息所として参られました。そして延久5年7月23日に女御となられ、四位の位階を賜られました。それから承保元年6月20日に御年18歳で后に立たれました。
同年12月26日前東宮の敦文あつふみ親王をお産みされましたが、この皇子は夭折してしまいました。
(※敦文親王は東宮に立っていない)
承保3年4月5日、 媞子ていし内親王をお産みなられ、その後に令子れいし内親王をお産みになられました。それから御年23歳の時に堀河天皇をお産みになったんです。

そして賢子様は応徳元年9月22日、享年28歳で三条内裏でお隠れになられました。
あの村上天皇の御母君穏子おんし様が宮中の梨壺(照陽舎)で亡くなられて以来、内裏で后が亡くなられたのは二度目のことでございました。
亡くなられた月の24日、ご遺体は四条高倉にある備後守経成つねなりさんの家へ運ばれ、10月1日に鳥辺野とりべのの方へおくられて、煙となって空へ登られました。

もう例えようもなく悲しかったですよ。だってまだ30歳にも満たないお年でしたのに、白河院のご寵愛も甚だしく、たくさんの皇子・皇女をお産みになられましたのに、こうして儚く亡くなられてしまわれたんですからねぇ……。

賢子様が亡くなられてから、世は悲しみに暮れてどんよりと暗くなり、当時天皇だった白河院は悲しみのあまりに廃朝と言って3日ほど御座の御簾もすべておろされ、政務も全く行われませんでした。
その嘆きようは唐国の李夫人や楊貴妃のお話のようであったと聞いています。

白河院は賢子様のご供養のため、それはもうたくさんの御堂や仏像をお作りになられました。
また、比叡山のふもとの円徳院とかいう御堂の御願文には、中納言匡房様が

匡房「七夕の2つ星のような深い契りであったからといって、いつまでも驪山りざんの雲をうらめしげに眺められますな」

とお書きになられていたそうですよ。

飯室いいむろの地には勝楽院という御堂をお作りになり、翌年の2月に供養なさいました。さらに、8月には白河の地にある法勝寺の境内に常行堂という御堂を作って、仁和寺宮にんなじのみや(性信)に供養させられました。
これと同じ日に、醍醐の地で円光院の供養もございました。

さて、それから9月15日に法勝寺で御法事がございました。それから同月22日は一周忌にあたりましたので、法勝寺にて再び供養がございました。
なにかにつけて悲しまれる白河院は、そばにいる人々まで胸が痛んでしまうほど沈んだご様子だったことでしょうねぇ。
朝に夕に白河院のお心は、御垣の柳を見ても、池の蓮を見ても、賢子様を思い出すきっかけとなってしまわれて、どんどん昔が恋しくなる一方でいらっしゃいましたとか。

寛治元年の12月頃、賢子様へ皇太后宮の位がおくられました。今も昔もこうした追号の例があるわけなんですよ。