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梟訳今鏡(15)すべらぎの下 巻三 をとめの姿、鄙の別れ

をとめの姿

二条天皇は本院(後白河)の第一の皇子でいらっしゃいました。現在の新院(六条)の御父君にあたられます。
この天皇の御母君は左大臣有仁ありひと様のご養女である懿子いし様。この方の実父は大納言経実つねざね様です。

さて、この天皇は保元3年8月11日に御年16歳で帝位につかれました。同年12月に即位の儀式がありまして、翌年平治元年1月3日には法住寺のほうへ朝覲行幸がございました。
また、1月21日には内宴もありました。公卿7人、殿上人11人が漢詩を作ったと聞いています。その折の序文は式部大輔永範ながのり様が書かれたとか。漢詩のお題は「花のもとに歌舞いを催す」であったかと思います。

この内宴で忠通ただみち様がたてまつられたという舞姫たちは今年こそ正式に女性でありまして、この舞姫たちは普段から通憲みちのり様に舞いを習っていたみたいですよ。
あの大徳通憲様は音楽の分野さえ好まれ、よく理解しておいででして、才能のありそうな女性たちに舞いを教えたり、時には神社などへ参ってご自分も一緒になって舞いながら練習されていたとか。

その舞いを私もすごく見たいなあと思っていたんですが、なにせこの老体ですからねぇ。思い通りに体が動きませんから、そういった場所へ参り合わせることもできず、結局見ることは叶いませんでしたよ。皆さんの中にはきっとご覧になった方もおいででしょうね。

さて、話を戻しましょう。そんな通憲様は後に戦乱に巻き込まれてしまいまして、その中でなにやら恐ろしいことがあって、こうした内宴もたった2年ばかりで再び絶えてしまったんです。あんなひどい目に遭われたのは故事復興にお力を入れすぎた罰だったんでしょうか。

そうはいっても、こうした活動はまだまだ続いてほしかったなあと思われるのですがね。でも舞姫の養育をできる人というのもなかなかいませんし、久しく行なわれていなかったことを復興したためにあんな大騒ぎが起こったのでしょうから、やはり時世に合わないことだったのでしょうかね。
それでも春のはじめに公卿やそれ以下の人々が漢詩を作ってたてまつるという行事はもっぱら賢明な天皇の御世にあるべきことだと思うんですけれど。それに、そういったことがあるというのはやはりうれしいですから。

さて2月24日には鳥羽院の皇女姝子しゅし様が后にお立ちになられました。この方は高松院とも申し上げる方で、天皇がまだ東宮でいらっしゃった頃から女御としておそばにいらしたんですがね、この日やっと中宮にお立ちになられたんですよ。元々中宮の立場にいらっしゃった本院の后である、右大臣公能きんよし様の娘君忻子きんし様はこのときに皇后宮に上がられました。この年は大嘗会もございました。

この頃はまだ天皇即位したばかりで、内裏に后も多くはおいででない時期であり、また権勢をふるうような者もみな退出してしまっていましたので、天皇はいつも清涼殿にばかりいらっしゃいました。また、中宮姝子様は藤壺にいらっしゃいました。
それから忠通様の泊まり勤務の場所は宣耀殿でした。

宮廷は広々としていて、大変すばらしいことだなぁと思っておりましたのに、平治元年12月、あのひどい戦乱が都の中で起こってしまいましたから、もう世の中は打って変わった様になってしまったんです。
かの少納言通憲様もこの戦乱のうちに亡くなられてしまいましたし、立派だと評判の公卿であり中将や少将だったという通憲様の御子たちも、ある者は流刑に、ある者は法師になったりしたんです。本当にただもうひどい時期でしたよ。

衛門督信頼えもんのかみのぶより様という方は通憲様と仲が悪く、それがきっかけでこういったひどい戦乱を起こしたんです。
この信頼様は本院が寵愛された方でして、院の寵愛にあやかればどんなに高い官職も思いのままとお考えになっていたみたいなんですよね。それを通憲様が諌められたことに信頼様は腹を立て、ついには戦乱に至ったというわけです。

通憲様は戦乱が起こることを早々に悟られ、先にどこかへお逃げになっていました。
その後に信頼様は戦乱を補機起こした報いとばかりに亡くなられてしまったんです。全く、ひどいの一言では言い尽くせないですよね。


鄙の別れ

あの少納言通憲様に縁のある者たちは様々な場所へ流刑となっていたんですが、それもみな召し返されて、ようやく世の中に平和が戻り、政治も二条天皇のご意向のもと行なわれるようになりました。

その頃は天皇の外戚である大納言経宗つねむね様と天皇の養育係であった粟田口別当の惟方これかた様のお二人が権勢を振るっていらしたのです。

しかし、このお二人は本院に対してその御心にそむき、時には目に余るような行いもあったのでしょうね、お二人そろって参内なさっていた時になにやらあひどい騒ぎがあったらしく、どうなることかと噂しあったことがございました。
その折に忠通様がしきりに本院をなだめられて、結局経宗様も惟方様もそれぞれ流刑ということになりました。

最近聞くところによれば経宗様は召還され、大臣となり、近衛府の長官をも兼任されているとか。それほど重い罪というわけではなかったみたいですね。
惟方様は「ひどい目にあった」と言って出家されてしまったそうです。あ、この方もちゃんと召還されていらっしゃったみたいですよ。

さて、鳥羽院の崩御から世に戦乱が起こって後、あちらこちらへ流刑となってしまわれた方々が多くいらっしゃいました。まず、讃岐院に縁のある者として左大臣頼長よりなが様など24、5人ほどが流されたとか聞きました。

そして4年ばかりが経ち、衛門督信頼様の起こした戦乱で少納言通憲様に縁のある者として通憲様の御子9人ほどが流されました。
事が収束して後にその人々は召還されましたが、翌年の春頃に中納言源師仲みなもとのもろなか様が信頼様の計画に加担していたとかで東国の下野国に流されました。
こうしたことがあってからも大納言経宗様と参議惟方様が本院に無礼をはたらいたとかでそれぞれ阿波国、長門国へと流されてしまったんです。

そうそう、これと同年の6月頃だったでしょうか、出雲守光保みつやすさんとその長男で当時源氏武者であった光宗みつむね様という人が筑紫の方へ流されたとかも聞きました。
この方々が最後どうなったかまではよく知りません。

この光宗さんの娘か妹であった女性が鳥羽院の寵愛を受けておりまして、院はこの女性の不憫さを見かね、当時の東宮(二条)の御乳母にしてさしあげたんです。
そしてその東宮の即位後、この女性は典侍ないしのすけとなりました。

こういったこともあって光宗さんの一門はそれなりに栄えていましたのに、二条天皇側の人々というのはこうした不幸にみまわれるようになっているんでしょうか。それとも源氏の一門は途絶える運命だったからでしょうか。はたまたあれほど優れておいでだった少納言通憲様があの戦乱の時、地面に掘った穴に隠れていらっしゃったところを光保さんが探し出して討ってしまったからかもしれませんね、この一門がこのような憂き目に遭ったのは。

さて、これまでにはこうしたことが何度もあったわけですが、その後はさすがに何事もなく平和でいられるだろうと本院(後白河)はお思いになっていらっしゃったんです。
あの時だって、どうしてそれをお疑いなどされていましたでしょうか。

あの時といいますのは本院の新皇子(高倉)の傅育係であったとかいう者が解官されて、流刑となってしまったときのことですよ。
大体6、7年ほどの間に30人余りの人々が各地へ流刑になったというわけで、本当に恐ろしいことでございました。
ですが次第に、罪の軽い者順にということなんでしょうかね、召還されていったんです。しかしその中でも惟方様にはなかなか召還の知らせが届かなかったんです。
いつまでともわからないまま長門国でお過ごしになっていらっしゃる時、かの地から都へ、ある女房にことづけてほしいと言って

この瀬にも 沈むときけば 涙川
流れしよりも 濡るる袖かな

とお詠みになったんですよ。

そうそうこの惟方様の兄君に大納言光頼みつより様という方がいらしたんですけど、この方は40歳となられてからそれほどの年も過ごされない内に出家して桂の里という地にこもられるようになったそうです。
光頼様は弟君の惟方様のように政治抗争に関わることもなく、なにかにつけて良い人だと聞いていましたのに、まことにしみじみと悲しく、またなかなかないようなお心がけだなと思いましたよ。

そういえば、左兵衛督成範しげのり様という方は通憲様の妻である紀伊の二位様の所生でありまして、当時は播磨守兼中将であったのですが、弟の美濃守兼少将である修範ながのり様たち含めみんな信頼様の起こした戦乱のために各地へ流されてしまったんです。
その時、この成範様は下野国にいらっしゃいましてね、そこで

わがために ありけるものを 下野や
むろの八嶋に 絶えぬおもひは

と詠まれたのだとか。