見出し画像

梟訳今鏡(12)すべらぎの下 巻三 男山

男山

鳥羽天皇の御在位中に入内された璋子しょうし様はたくさんの皇子、皇女をお産みして、后の位を下りられてからも女院と申していらっしゃいました。

璋子様は白河院にご養女として非常に大切に育てられ、後見されていたわけですが、白河院の崩御後、宇治の后こと高陽院泰子かやのいんたいし様が鳥羽院のもとに参られたため、両女院がそれぞれに院のご寵愛を競い合うようなご様子となっていました。

ですが院はどちらに対してもそっけない態度でいらっしゃったんです。
ただ人目を忍んで参られた得子様ばかりを寵愛されていらっしゃいました。
院と得子様はどこへいくにもご一緒で、ともすれば院は朝方の政務もおろそかになさってしまう始末。そんなわけでしたから、もちろん得子様の元への夜のお通いは絶えなかったことでしょうねぇ。

この得子様の父君にあたられる方は中納言長実ながざね様、母君にあたられる方は源俊房みなもとのとしふさ様の娘で方子ほうし様と申し上げました。ですから、得子様は決してたいそう身分の高い方というわけではなかったんです。
それでもこの両親は得子様のことをとても大切にお育てしていましてね、「並の男になぞ嫁がせないぞ」とさえ言って、本当に大事な箱入り娘として扱っていたんです。
そうしているうちに長実様が亡くなられてしまいまして、その喪があけた頃、院から得子様のもとへお手紙があったんですよ。
これがキッカケで人目を忍んで院のもとへ参られるようになったというわけなんです。
院には以前から得子様を想うお気持ちがあったのかもしれませんねぇ。

さて得子様が院のもとへ参られ始めてからというもの、院のご寵愛は日に日に増していき、ついにはご懐妊さえなさいました。その折、鳥羽院は様々な寺で仰々しいまでにご祈祷させられるなどしたんです。

そして無事に得子様は皇女(叡子えいし)をお産みしたんです。鳥羽院はその出産をうれしくお思いになられながら、男皇子ではないことばかりが残念でなりませんでした。
それから2度目のご懐妊もあったのですが、産まれたのはまたもや皇女(暲子しょうし)でありました。
この時も院は心から残念にお思いになられましたが、そうはいってもやはり、こればかりはしかたのないことだと悔しくお思いになったことでしょうよ。

最初の皇女である叡子様は御子のいらっしゃらない泰子様のご養女になさいました。泰子様の父君である忠実ただざね様も叡子様を気に入っていらしたんですかね。
それから、次の皇女である暲子様は院自ら育てられることになったんです。

この頃、得子様の院参は人目を忍んでのことでございましたので、人々は得子様のことを「あのお方」と申しておりましたが、得子様に三位の位階が与えられてからというもの、院はただもうこの得子様をこの上なく待遇するようになって、世間でも得子様を並びなくすばらしい方と見奉るようになっていったんです。

そんな中、再び得子様がご懐妊されました。この時、院にはなにかお考えになっていることがあったらしく、「また皇女だったら……」といつに増して不安になられ、男皇子が産まれますようにという祈祷を、これまた言い表せないほど大げさに行われました。
石清水八幡宮では般若会という法会をひらき、延暦寺、園城寺などにいる高僧たちを召しては毎日仏法の核心を極めた祈祷を行わせたんです。

得子様のご後見をしていらした中納言顕頼あきより様は都でのお仕事も大事ではありましたけど、この時ばかりは八幡宮の方にこもって、毎日束帯を身につけて法会を行われていました。院の代理としてのお役目だったんでしょうねぇ。

こうして様々な人々が我も我もと祈祷をなさいます中に、延暦寺の僧で忠春という者がいましてね、その僧は「鼇海ごうかいの西には海の宮、御産平安のたのみあり。鳳城の南には男山。皇子誕生の疑いなし」と秀句を結んだのだとか。
これはその先日、奈良の西大寺の僧都である済円という方が安産の意味を込めたお祈りをしたことが世間で称賛されていたところへ、この已講忠春がこのように結びを加えられたというわけで、どちらも言いようもないほどすばらしいことをしたものだと噂されたものでしたよ。

さて、ご祈祷の最終日には院が公卿たちをひきつれて寺院に参拝なさいまして、お布施やみてぐらなどを贈られるなどされました。
また法会での公卿たちは歌に笛におのおの心を尽くされて、まるで清涼殿でね御神楽のようでした。

このような言い表せないほどのご祈祷の末、保延5年だったでしょうか、5月18日にこの世のものとは思えないほど美しい玉のような皇子(近衛)が産まれたんです。
院は言うまでもなく、世間でも地を揺るがすほどの喜びであったこと、もう例えようもないくらいでした。
ご出産は午後2時頃でしたので、まだ御前に祈祷僧たちがいらっしゃったんですよ。だから、そのままその祈祷僧たちにご褒美の御馬や禄の女房装束が与えられ、また仁和寺の覚性法親王と天台座主の行玄様には僧綱の位やその他色々な賞が与えられまして、その後解散となりました。

御産養いの七夜などには関白忠通様を初めとした様々な人々が参られました。もちろんお祝いの宴会もあったんですよ。
皇子の産湯に使う御湯殿は南面に設えられ、また魔除けの鳴弦は白襲ねの衣を身につけた五位、六位の者が行われたのだとか。

それから男皇子でいらっしゃいましたので、10歳になる頃には読書初ふみはじめの儀式もありました。その際の先生役は式部大夫敦光あつみつ様や左中弁顕業あきなり様などの大学者、大外記師安もろやす様といった明経博士たちが務められました。学者の方々が五位相当の濃いねずみ色の衣、朱色の衣をそれぞれ着用され、交代で毎日漢詩を読み上げる様はもうこの上なくすばらしかったんです。

皇子のためのご祈祷もこの頃には始まっていたんですよ。ケガレを人形にたくして7ヶ所の川に流す七瀬の禊の折には弁官や衛門府の次官、五位の蔵人など、当時羽振りの良かった方々7人が人形とその人形の衣装が入った箱を持って、それぞれ指定された川へ向かったんです。この役目は並の公卿などでは釣り合うはずもなかったんですよ。それほどに覚えめでたい7人でしたからねぇ。

さて、この皇子の御乳母には二条関白師通もろみち様のご子息の参議中将家政いえまさという方の娘君が、蔵人頭清隆きよたかの妻であったという縁で選ばれ、務められたそうです。

この皇子が月日が経つにつれ、この世でめったにないほど美しい子どもに育っていくのをご覧になるにつけて、院は「なんとかして速やかにこの子を東宮に、果ては帝位につけてやりたい」とお思いになっていたんです。
ですが、天皇時代からの后であった璋子様所生の皇子がたくさんいらっしゃいましたため、その子らを越え、割り込ませてまでそのお考えを実現させてもいい理由などありませんでしたから、非常にお悩みになっておられました。
そんな中、こんな話が出てきたんです。

「この皇子を今上(崇徳)の御養子にさせられては?」

そういうわけで、この皇子は6月26日、天皇の御養子として宮中に入られることになりまして、そのおともは公卿や殿上人たちから選ばれ、普通の天皇の行幸よりも際立っているくらいでしたよ。
都内の道は車同士が避けられないほどあふれ、見物しに行こうにもなかなか大変でしたよ。

まあこうして皇子が宮中へ入られた後、蔵人を通じて輦車の宣旨などが行われ、それから内裏に入られました。
中宮聖子様はご養母としてこの皇子を迎えられたものの、聖子様自身はまだ御子をお産みしたことがおありでなかったので、清新なお気持ちでお世話なさっていました。
この聖子様のお父君は関白忠通様でいらっしゃいましたから、この方が皇子の祖父として後見をすることになりました。
今まで天皇にもその中宮聖子様にも皇子がいらっしゃらなかったんですが、この皇子が養子ななったことでその問題も解決し、さらに皇子側は関白という強い後見人を得られたということで、院も安心なさいました。

それからさらに良いことは続き、皇子は天皇の養子になってからすぐ、8月17日に東宮に立たれたんです。
東宮の御所となる昭陽舎にはかざりつけがなされ、その後に東宮が渡られました。
東宮大夫は堀河大納言師頼もろより様が務められましてね、この方は東宮の御母君である得子様の伯父にあたられましたので、その縁から特別に任命されたんです。

この頃に東宮の母となられた得子様は女御の宣旨を賜られまして、ようやく念願が叶ったということになったんです。
后として皇子をお産みするだけでもこの上なく幸運で喜ばしいことですのに、その皇子は御性格も御容姿も非常にすぐれ、同じ世に生きている方とは思えないほどのすばらしい方でいらっしゃいますなんてね。
そうそう、この東宮はとてもお利口で慎みのある方でして、日中御座にいらっしゃる時、なにかあって師頼様に抱っこされる際にも泣かずにいらっしゃいましたし、お座りになっている間もちゃんと敷きものの上に1人で座って、まるで大人のように凛としていらっしゃいました。ですからこの東宮に期待している人々はみな、そんな東宮の立派なご様子に喜びの涙を抑えられない様子でしたよ。

こうして保延7年(永治元年)12月7日、御年3歳にして帝位につかれました。(近衛天皇)
当時の天皇は若くても5歳で即位していたんですが、父院はこの天皇の即位がうまくいくか心配でいらっしゃったんでしょうかね、こうして歴代最年少で速やかに即位させてしまわれたんですよ。
そして御年25歳で天皇の御母君となった得子様も女御から皇后宮に立たれることとなりました。

この新帝の即位の儀式や大嘗会などは並々ではなく、世をあげて盛大に行われたんですよ。
天皇は成長していくにつれて美しくなっていかれ、まるで前世からこうなることが決まっていたかのようでした。

関白忠通様の弟君でいらっしゃる左大臣頼長よりなが様がこの天皇のもとにご養女の多子たし様を女御として入内させまして、この方はその後皇后宮に立たれました。
それでもなお足りないと思われたんでしょうかね、忠通様は院に手配してもらって、大宮の大納言伊通これみち様の娘君呈子ていし様を養女になさいまして、それから入内させられました。呈子様は忠通様の妻の宗子しゅうし様の姪にあたられるという縁で養女にされたんだそうですよ。この呈子様はその後中宮に立たれました。

多子様も呈子様もそれぞれ華やかでいらっしゃいましたが、やはり二后並立という状況でしたから、帝寵をめぐって互いに競い合っていたことでしょうね。
それにお二人のご養父でいらっしゃった忠通様と頼長様の兄弟仲も良くなかったですし、特に多子様はなにかと支障が多いことだったでしょうよ。
天皇は忠通様のおやしきを里内裏としていらっしゃいましたから、もっぱら呈子様の方が天皇のお傍にいらしたんですよ。
ですから多子様側の人々は「呈子様が多子様から帝寵を奪っているようだ」と嘆いていらしたとか。

こうして月日は過ぎていき、天皇の御母君の得子様に女院号が与えられ、それから「美福門院」と申し上げるようになったんですよ。こういうわけで、鳥羽院の后には3人の女院がいらっしゃるということになったわけです。
その上宮中には后が2人もいらっしゃいましたし、この当時は后がたくさんおいでだった時期だったのですよ。