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梟訳今鏡(13)すべらぎの下 巻三 虫の音

虫の音

近衛天皇はご容姿もご性格も大変親しみやすくいらっしゃったのですが、後年に至って目が光を失われてしまったんです。
そういう運命だったのでしょうかね、どんなご祈祷も、どんなお薬も効果がなく、ついには年始の朝覲行幸もなさらないほどになってしまわれました。

摂政忠通ただみち様はこの天皇をこの上なく大切にお思いになられ、天皇もまた忠通様を並々ならず信頼されていらっしゃったんです。
それから、当時忠通様は弟君の頼長よりなが様に圧迫されて、藤氏長者などを取り上げられてしまっていたんですが、天皇はそれを子供心に嘆いていらしたそうで、また、忠通様の方も天皇のご病気のことを嘆かれていました。
そんな中、天皇が御年17歳だった時でしたかね、初秋の末頃からご体調がお悪くなり、それからすぐ崩御されてしまわれました。
その時はもう、世間の人々までも悲しみのあまり闇の中でさまようような心地でありました。

だからといってずっと沈んだ気持ちのままでいるわけにもいきませんから、父院である鳥羽院は次の天皇を決めようとなさいました。
その際にですね、これは本当なんでしょうか、院は美福門院得子とくし様が御子を亡くされてお可哀想だからとかで、この女院所生の皇女(暲子しょうし)を女帝として立てようとのお話が上がっていたみたいですよ。また、仁和寺にいらした守仁もりひと親王を立てようとのお話も上がったりしていたんですが、院は結局ご決断なさらないまま、ずっとこのことを考えあぐねられていたそうです。

それにしてもこの近衛天皇は、ただお隠れになったというだけでも惜しまれますのに、幼い頃から和歌がお得意で、さらには経典などにもお心を傾けられて、お経を和文に読み下されたりして、本当に前世からの良い宿縁がおありなのだろうなあと思われる感じでしたから、余計に早逝されたのが残念でなりませんでした。

そうそう、天皇が法華廿八品の要旨を折り込んだ和歌をお詠みになったことがあったんですが、同じ和歌とは申してましても最近のものとは別格でしたよ。
御作のお歌はどれも王朝時代を思い出すようなすばらしいものでした。
特に、ご病気でもう長くないと不安になられた折に

虫の音の  弱るのみかは  過ぐる秋を
惜しむ我が身ぞ  まづ消えぬべき

と詠まれたことなどは大変悲しく、胸がしめつけられるような思いがいたしますよ。
また、「から萩」を隠し題に

辛からば  きしべの松の  浪をいたみ
ねにあらはれて  泣かむとぞ思ふ

と詠まれた歌など、他にもさまざまなすばらしいお歌がございましたが、私はもう覚えていません。

この天皇は帝位におわすこと14年でいらっしゃいました。天皇のお葬式の日の夜、元蔵人くろうどであった平実重たいらのさねしげという者が昔を偲んで

思いきや  虫の音しげき  浅芽あさじう
君を見捨てて  かへるべしとは

と詠まれました。それにつけても悲しく思われたことでしたよ。
他にも、忠通様のご子息で大僧正の覚忠様と申す方がいらしたんですが、この方が天皇自らお植えになられた菊の花を見て

よはいをば  君に譲らで  しら菊の
ひとりおくれて  つゆけかるらむ

と詠まれたことも、またしみじみと悲しかったです。

それから、備前の御という女性がいたんですが、この方も天皇が崩御された後、昔のことが偲ばれて、忘れがたい思い出ばかりがたくさん思い起こされていました。
そんな星合いの七夕の頃、先帝(近衛)の内侍だった土佐という女官が先帝の死の悲しみに耐えられず、出家してひきこもってしまったという話をきいて、詠みおくられた歌は

天の川  星合いのそらは  かはらねど
馴れし雲居の  秋ぞ恋しき

というものでした。大変情深いことだと思われましたよ。

さて、近衛天皇の御母君は贈左大臣の中納言長実ながざね様の娘君、得子様でいらっしゃいます。
得子様は皇后宮となり、後に女院となられ、美福門院様とも申し上げます。
この方については先ほどもお話しいたしましたし、昔というほど昔のことでもございませんから、みなさんもご存知のことでしょうね。ですが、まあ、近衛天皇のお話の続きということで今一度お話ししましょうか。

この美福門院様といえば、なんといってもやはり驚くばかりの宿縁の良さですよね。
御父君が亡くなられ、これからどうなってしまうんだろうという時に、とあるきっかけから人目を忍んで鳥羽院の元へ参られ始めることになり、そして皇子皇女をお産みして、女御から后、さらには天皇の御母君という高貴な立場になられただけでなく、後世にまで続く栄華といったら、もう申し尽くせないほどですよ。

最初にお産みした皇女で、高陽院泰子かやのいんたいし様のご養女となった叡子えいし内親王は近衛天皇崩御の頃にはもうお隠れになっていらっしゃいました。

そしてその次の皇女、暲子内親王は現在八条院と申しあげる方のことだったかと思います。この方はお産まれになってすぐ、鳥羽院が自らお育てしようということになりまして、朝夕に院のお心を癒やす存在であられたみたいです。
幼くいらっしゃいました頃、お言葉など可愛らしく仰せられていらしたようで、ある時には

体仁なりひとは東宮になったわ!つまり私は東宮の姉になったのだわ!」

なんて院に申されたことがあって、院は「東宮の姉だなんて官位があるものかね」と言ってお笑いになったんだとか。

八条院暲子様は保延3年にお産まれになって、保元2年6月に御年21歳でご出家されました。
応保元年12月に女院号を与えられ、「八条院」と申し上げるようになったんですよ。
二条天皇を猶子とされていましたので、天皇の実母ではないですが、御母君という扱いで、后に立たずして女院号を賜られたんです。あの小一条院が東宮のままであったのに院号を与えられたようなものでしょうか。

さて、近衛天皇がお産まれになった後の永治元年1月のことでしたかね、得子様が鳥羽院の御所、六条殿で姝子しゅし様をお産みしたんです。
姝子様は二条天皇がまだ東宮だった保元元年に東宮の御息所となっておられたんだそうですよ。そして、二条天皇が帝位につかれた後の平治元年2月21日、中宮にお立ちになられたんですが、永暦元年8月19日にご病気ということで、御年20歳にてご出家なさいました。

この方はとても高貴でいらっしゃいましたから、応保2年2月5日に女院号を与えられて「高松院」と申しました。

以上のような方々の御母君であり当時の国母でいらっしゃった美福門院様は、近衛天皇を亡くされて嘆かれていたその翌年に、夫である鳥羽院までも亡くされてしまわれたんです。
その際、北面の下級官人たちを呼び集めて、

「院のいらっしゃらない今、何があっても絶対に女院である私に従いなさい」

と言い渡されました。

美福門院様は鳥羽院の病床の内にご出家なさいまして、「三滝の聖」と呼ばれた西念法師という者を御戒の師とされていました。俗世をすべてさっぱり切り捨てられたようなご様子だったことと思いますよ。

院は鳥羽殿などのいくつかの御所における権利なんかもすべて女院の思い通りになるようにのみ言い置かれてあったのですが、美福門院様は後のことを考え、その賢明なご判断からなにもかも放棄なさったんです。
皇女たちについても女院がご存命の間にみんな出家させられたんですよ。なんともしみじみと、大変物悲しく思われました。まるで仏様の8人の王子たちとか、16人の沙弥たちのお話のようですよね。

中でも中宮であった姝子様は后という身ではじめて出家されまして、完全に悟りをひらかれました。ご自身が精進されるのはもちろんのこと、さらにはご自分の皇女たちにもすすめて尼となし、仏道修行に努めておいでだったのですが、ある日ご病気を患われ、ついに応保元年11月23日にお隠れになってしまわれました。
その折、空には紫の雲がたなびいて、姝子様は端座したまま往生されたのだとか。

姝子様は以前、高野山の方に公にはしないで御堂を建てられておられましたので、御遺骨はそちらへ送られましたのだとか。
そのお供にふさわしかろう人々はみんなそれぞれ支障があって参加できず、ただ贈左大臣長実様の末子で、美福門院様の弟にあたられる備前守時通ときみち様、この方も後には法師になられたんですけど、その当時姝子様とお約束されていたそうで、この時通様ばかりがご遺骨の入った入れ物を首にかけて高野山の御堂へ行くと言うこと
になりました。
そこへ姝子様に幼い頃からよく仕えていた若狭守隆信たかのぶというとても若い男が、名残惜しさにご葬送についてきていたそうです。
高野山に到着した日、雪がものすごく降っていたのを見て

たれかまた  今日のみゆきを  おくりおかむ
我さえかくて  思ひ消へなば

と詠んだのだとか。