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梟訳今鏡(7) すべらぎの中 第二 紅葉の御狩り、釣せぬ浦々

紅葉の御狩みか


白河天皇は先帝後三条院の第一の皇子でいらっしゃいました。御母君は贈皇后宮茂子もし様と申します。

茂子様は権大納言能信ごんだいなごんよしのぶ様の御養女でいらっしゃいまして、後三条院が東宮でいらっしゃった頃から御息所みやすどころとして参られていた方なんですよ。
茂子様の実の御父君は閑院の左兵衛督さひょうえのかみ兼中納言の公成きんなり様でして、能信様の妻である祉子しし様がこの公成様の妹君でいらっしゃったという縁で、茂子様は能信様に御養女として迎えられたわけなんです。

さて、この天皇は天喜元年6月20日にお産まれになり、延久元年4月28日に御年17歳で東宮にお立ちになられ、延久4年12月8日、御年20歳にして帝位につかれました。

そんな中、父院(後三条)が位を譲られてから翌年の5月に崩御してしまわれたんです。
ですから天皇は御年21歳にしておひとりで政治を行われていたのですよ。

この天皇の御在位期間は、御年34歳にて譲位されるまでの14年ほどでしたが、御年77歳で崩御されるまで世を治めておられたので、その治世は56年も続いていたというわけなんです。

かの延喜の治の醍醐天皇は33年の治世でありましたが、それも御在位中限りのことでしたし、陽成院は御年81歳までご存命でいらっしゃいましたが、退位なさってからばかりが長くて、しかも退位されてから特に政治をしていたというわけでもありません。
また、後三条院にいたっては退位してすぐに崩御されてしまわれました。

ですが、この天皇の御世には父院の頃のなごりで摂関などによる権力の独占もなく、天皇はお若い時からご自分で国を治められました。
そして退位されてからも堀河天皇、鳥羽天皇、讃岐の天皇(崇徳)の、3代の皇子や御孫の御世で上皇でありながら国を治められたんですよ。
これほどまでに長く国を治められたなんて、昔にも例をみないようなすばらしいことですよねぇ。

ただ後二条関白師通もろみち様ばかりは「退位した天皇の御所の門前にこんなにたくさんの車が並んでいるとはおかしなことだな」なんておっしゃっていましたけどね。
ですがこの師通様がお隠れになってから後にもこの天皇を批判をする人がいたでしょうか。

あ、そうそう、この天皇は忌日のお産まれだったなんて聞いたことがありますけど、本当なんでしょうか?
あと天皇の乳母めのとでいらした二位様(親子しんし)も忌日に天皇の元へ参られ始められたとか。
しかし二位様のお家の末茂流藤原氏はすばらしいお栄えで、今日もその栄光がいよいよ増してきているようですけどねぇ。
そんな悪い日に参られたなんて話もかすかな噂でしたし……。

そうそう、乳母で思い出しましたけど、この天皇のもう一方の乳母であった、知綱ともつなさんの母君でいらっしゃました方は、日野の三位資業すけつな様の娘君でいらしたんです。
この方は世間での評判も本当に良かったんですが、天皇がまだ5歳でいらっしゃったときに亡くなられてしまわれたんですよ。
そのため二位様だけが並ぶ人のいない感じでいらっしゃったんです。
前世での行いが立派であれば、忌日の支障なんてへっちゃらなんでしょうねぇ。そうでもないような者にこんなマネができるはずないですよ。

そうだ、この二位様が草子合わそうしあわせを催されるとのことで、様々な人々が集まってすばらしいお歌を詠んだということがあったんですが、それはそれは大変優美でありましたよ。

さて、白河天皇にお話を戻しましょう。
この天皇は強気でありながらも温かみのあるご性格でいらっしゃいまして、どこか父院に似ているところがおありでした。

それから、天皇は非常に派手好きでもあったんですよ。
あの勅願で建立された法勝寺なんてすごく大きいですし、八角形で9層の巨大な仏塔までお建てになりました。

それから100躯の仏像の供養をいつものように行っておられましてね、ある時仏前に供える御燈明を一度にすべて点火するという工夫を思いつかれたことがあったんです。
植え込みの陰に火をつけるための道具を隠しておいて、100人の点火係も用意して、いっぺんに火をつけさせようとされたわけですよ。
ですがその際、係の者たちは事情をうまく飲み込めておらず、ぽつぽつと不揃いに点火してしまったんです。
天皇はそれをご覧になられて御機嫌を損ね、また一度火をつけ直させられたとか。

それからこの天皇は鳥羽の地にある御所に、お庭を広く囲って、その中に様々な池、築山なんかを甚だしくお作りになられていたんです。
父院の頃は重要なお祈りである五壇の御修法をなさる場合にも、「国の財政が傾くから」といって倹約されたり、菩提寺である円宗寺でさえ仰々しくはお作りになられなかったんですよ。
これは、昔、漢の文帝が屋根のない高い楼台をお作りになろうとして、「今のこの国の財力では難しいだろう」といってとりやめられ、さらに女官たちには贅沢な裳裾の着用を禁じ、御帳の帷子かたびらさえ無地の質素なものをお使いになったという話と同様な考え方であろうと思われます。
こういった倹約はその時その時の事情に従って行われるべきなんでしょうねぇ。

ところで、この天皇は弓術などもお得意でいらっしゃったんでしょうか。たしか、池の水鳥を射って父院の御機嫌を損ねられたことがあるという話をなさっていたと聞いたことがあります。
これはおそらく、天皇がまだ幼い東宮でいらしたときのことでしょうね。

天皇はなにかにつけ色々な専門分野のことも重んじられていらっしゃいました。
ご在位中に勅撰集「後拾遺和歌集」、退位されてから「金葉和歌集」を編まれました。
どちらの和歌集にも天皇の御製のお歌がたくさん入集しているそうです。
ただ、この「金葉和歌集」という名前はその撰者がつけられたらしく、あまり気に入らないという人もいるみたいですよ。

さて、承保3年10月14日に大堰川おおいがわの方へ行幸がございまして、その際嵯峨野さがのにも立ち寄られ、そこで紅葉狩りをされたことがあったんです。その時に天皇が、

  大井川 古き流れを たずねきて
                          嵐の山の もみじをぞ見る

というお歌をお詠みになられました。
あの延喜7年にあった宇多法皇の大堰川行幸が思い出されるようで、また王朝時代のような感じもして、大変優美なことでありました。

それから承暦2年4月28日、清涼殿で歌合が催されました。判者は六条右大臣源顕房あきふさ様、当時は皇后宮大夫でいらっしゃった方です。
この時の歌人たちは良い時節に巡りあったもので、この歌合にも様々なすばらしいお歌がたくさんございましたとか。
歌そのものの優劣は言うまでもなく、その歌合の趣もなんとも言い表せないほど立派でしたよ。

かの村上天皇の天徳の歌合とこの承暦の歌合2つがこれまで行われてきた数々の歌合の中で最もすぐれていると今日まで言われているんですよ。

また、天皇は唐国の漢詩文なども大事になさっておりました。
和漢朗詠集にある漢詩の一節からその残りの部分を探して、四韻すべて揃った完全な状態に整えるということを思いつかれて、中納言匡房様がそれを申しつけられました。

その中で「五月さつきのセミの声は何の秋を送る……」とかいう漢詩があったんですが、これの全文がどこにも見つからなかったんですよ。
そんな折、ある者が「この詩でしょう!」と言って匡房様に見せにきた漢詩があったんですが、匡房様は一応天皇にこのことを奏して、「これは違うかと思うんですが……」と申し上げたとか。
その後、仁和寺の臨本(習字の手本)からこの詩の全文が出てきたんだそうですよ。

それから「本朝秀句」という書物のあとを継ごうとなさって、忠通ただみち様を撰者として全3巻の「続本朝秀句」という書物をお作りになりました。その中にはまことに情緒豊かな漢詩もあるみたいですよ。

そうそう、退位されてからの50歳の祝賀もなかなかすばらしかったんです。
康和4年3月18日、堀河天皇が白河院の御所のある鳥羽の地へ行幸なさいまして、父院(白河)の50歳という長寿を慶ばれました。
祝賀の宴での舞人、楽人はそれぞれ殿上人や近衛府の中将、少将らがつとめまして、左楽の唐楽、右楽の高麗楽こまがくを各々演奏したりしていました。
童舞いの少年は3人で、胡飲酒こんじゅ蘭陵王らんりょうおう落蹲らくそんの3つを舞いました。
中でも1人舞いの胡飲酒は村上源氏の若君が舞われたんですが、そのお袖を振られる様子は、まるでその身に天童が下ったかのようで、この世の人間のものとは思えず、眩しいほどに立派でしたよ。
その後、この若君の親でいらっしゃる太政大臣雅実まさざね様、当時は大納言であった方が、天皇からご褒美の御衣おんぞを賜って、肩にかけ、拝してお礼を述べられたとか。
この頃の雅実様の御子というと、この若君はのちに中院大将なかのいんたいしょうと申し上げるようになる雅定様のことでありましょう。


つりせぬ浦々

白河院の治められていた世は本当にあの延喜・天暦の治での様式を受け継いで様々なことを行われたものでした。

この天皇が臣下に官職をお与えになられる時は必ず正当な理由があってのことで、決してむやみに昇進させられたりはされなかったんです。

例えば、世間でも評判のいい六条修理大夫顕季ろくじょうすりのかみあきすえ様という方に、文章博士の敦光あつみつ様が

敦光「あなたはなぜ参議になられないんですか?参議になるには7つの条件がありますが、あなたはそのうちの三位であること、5つの国の国司を歴任していること、などを満たしているのに……」

と言われたことがあったんです。
それに対し、顕季様は

顕季「私もそう思って、院に相談したんですけどねぇ。参議になるには漢詩文に通じていなければいけないと言われてしまったんですよ」

と答えられたんだとか。
また他にも、中納言顕隆あきたか様と申す方がいらっしゃいまして、世間では「夜の関白」と呼ばれていたほど実力のある人だったんです。
それで顕隆様がまだ下級官人でいらした頃、院がこの方を弁官にしてやろうとお思いになられたことがあったんですが、その時も

白河院「……いやいやいや、漢詩文ができない者を弁官にすることはできない。四韻の詩文が作れてこそ弁官になる資格があるというもの」

と仰せられて、それを聞いた顕隆様はびっくりされ、このことをきっかけに漢詩文を勉強し、愛好なさるようになったのだとか。

それから、この院は非常に明朗でいらっしゃいましてね、ちょっとしたことでも大げさなくらい感動なさったり、ささいなことでも絶対に手を抜かれず、時に厳格でもあられましたよ。

これはどこの本山でのことだったでしょうか、たしか院がご祈祷の褒賞をお与えになろうとしていたんです。
そのとき院は、親しくしているのにただお布施だけというのは物足りない気がして、かといって阿闍梨あじゃりを常駐することにしてしまえば、思いを伝える分には相応であるものの、それはそれで優遇し過ぎている気がして、どうしたものかと頭を悩ませておられたところに、顕隆様が、

顕隆「そういうわけでしたら、今回限りで一時的に阿闍梨を置かれてはいかがですか?」

と申し上げられたことがありました。
院は非常に感動されて、

白河院「おお、なるほど、それがいいな。お前がいてくれなかったら、私だけではどうすることもできなかったよ」

と仰せられ、この顕隆を頼もしく思われたとか。

院は顕隆様のご子息である顕頼あきより様も頼りにしていらっしゃいまして、

白河院「まるでぼんやりした夢の中で正しい方向に手をひいて導いてくれるようなやつだ」

と仰せられていたそうです。
そんな顕頼様は本当に院のお気に入りだったみたいで、例えば、本を入れた箱なんかを引き下げさせる時、顕頼様には決して申し付けられず、下級官人を呼んで、そっちに申し付けられたりなどされていましたよ。

ですが、顕頼様が五位の蔵人でいらっしゃった頃、顕頼様が院の元へ除目じもくの際に使う目録を奉られたときのこと。
院はその目録を受け取って、ご覧になるや否や、不機嫌そうに音を立てて巻き戻され、顕頼様に無造作な感じで返されたということがあったんです。
この時、顕頼様は「どうしたことだろう」と恐れ入って、御所から退出されました。

その後に顕頼様の父君である顕隆様が院の元へ参られたところ、院は、

「除目目録の、この大外記師遠だいげきもろとおという者、摂津守を兼任しているのに、かの国の公文書もろくに審査していないだろう。どうしてそんな者が目録に入っているんだ」

と仰せられたのだとか。
院はたとえどんなに小さなことでも厳格に向き合っていらっしゃったというわけです。

ああ、そうそう、院は経典なんかも熱心にお勉強なさっていましたよ。
天台座主良真てんだいざすりょうしん様に全60巻もある法華経の真髄についての解釈書を習っておいでだった頃、良真様は都の西側に閉じこもっていらしたのですが、比叡山の大衆はこの良真様が院に法華経について伝授することを許しませんでしたので、良真様は院の元へ参ることがなかなかできなかったんです。
ですが院は「西院にいらっしゃる仏様を拝むついでだから」ということで、院自ら良真様の元へお通いになられていたとか。
仏法のためにしても、良真様のためにしても名誉あることでございました。

そういえば金泥という顔料を使って一切経を書写されたこともありましたねぇ。
これは唐国においてもなかなかないことだそうですよ。
この院の後にこそ、我が国でも金字での一切経の書写は多く行われるようになったんです。
ですから、これを初められたのはこの白河院だったというわけなんですよ。

院は生きとし生けるものすべてをお救いになるため、崩御されるまでずっと放生ほうじょうをなさいました。
その頃は五月の小山には火を灯して鹿を捕る猟師の姿はなく、秋の暮れの浦にも釣りをする漁師の姿は絶えてしまっていました。
また、網を持っている漁師の苫屋などがあると、それをみんな取り上げて、縄の1本も残さず焼いてしまいました。
さらに網を持っていた者はとんでもなく酷い目に遭うなどして、罪人として罰を受ける者も数え切れないほどおりました。
ただ神社などについては特別に許されて、放生の間も形式通り動物をお供えしたりしていましたよ。
その他は生き物を殺すことは厳禁で、宮中でのお食事も毎日が六斎日みたいだったそうです。

さて白河院は、ご在位中に中宮賢子けんし様に先立たれ、それをひどくお嘆きになって、たくさんの御堂を建ててお祈りされていました。
また、退位されてからは賢子様との間に産まれた娘君である媞子ていし様を失くされ、この時もまた非常にお嘆きになり、御年45、6歳頃でしたでしょうか、ついにはご出家されてしまわれたんですよ。
お悲しみのあまりに世を遁れられたとはいえ、この時にはまだご授戒はされておらず、法名なんかもなかったんじゃないでしょうかね。
ある時のご祈祷で、天台座主の教王房(賢暹けんせん)様が祭文に記すためということで、院に法名をお聞きしたそうなんですが、

白河院「法名はまだつけていないぞ」

教王房「そうなのですか。……では、ご事情をお汲みして、お祈りさせていただきますね」

ということがあったとか。

それから後、ずっと長い間治天の君として世を治めておられました。
ですが大治4年7月7日、急にご体調がお悪くなられて、ご霍乱(急性腸カタル?)かと思われていたところ、日もまたがずして崩御されてしまわれたんです。
空の様子も普段とは一変してどんよりとなり、雨風の音もゴウゴウと激しく、また日が経つにつれて世間の人々の悲しみもどんどんつのっていくかのようでした。

こうして人々が茫然となっている中にも、歌の道に熱心な者がおりまして、

またも来む 秋を待つべき 七夕の
                  別るるだにも いかが悲しき

という歌を詠んだそうです。
これはあの平氏の刑部卿忠盛ただもり様のことだそうで、この当時はどこかの国の守とかであったかと思います。

鳥羽院、花園左大臣有仁ありひと様、摂政忠通ただみち様たちもお若いお姿に喪服を着用され、喪中には仏道のことや、ご供養なんかをなさっていたとか。
そうそう、いつだったかははっきり覚えていませんが、たしかこの頃に誰かが詠んだ歌で

いかにして 消えにし秋の 白露を
            はちすの上の 玉と磨かむ

というものがあったとか。詳しくはよく知らないんですけどね。

白河院は鳥羽の地に御所を構えておいでだったので、誰もがこの院には「鳥羽」という諡号がおくられるんだろうと思っていたんですが、白河という地にも様々に御所を作っておられたため、「白河」という諡号がおくられたんですよ。

院の御母君、茂子様は父院の東宮時代に御息所のままお隠れになってしまわれました。
その後延久3年5月18日、この茂子様に従二位のくらいがおくられ、延久5年5月6日には皇后宮の位がおくられたとか。
また国忌、みささぎなどもちゃんとおかれ、それと同じ日には養父の大納言能信様に正一位太政大臣の位がおくられました。
それから茂子様の養母にあたられる祉子様にも正一位がおくられたみたいですよ。祉子様は備中守知光ともみつさんの娘君です。
(※祉子は藤原実成の娘である)