EIG:構成と変遷2

ここで時系列をざっと記しておく。(事象・項目によって記述の濃淡がある。)最初に、「集団期」以前のビオンに関わり、影響を与えたことが知られている人物たちを暫定的に挙げる。
*オックスフォード(クイーンズ・カレッジ)時代:彼の専攻は「歴史学」だが、H. J. Paton (1887–1969)を通じて、カント哲学に触れている。
卒業後、フランスのポワチエ大学に留学(1921-22)。”All My Sins Remembered(AMSR)”には、記載がなかったか。それから母校に戻って教職に就くが、不本意な退職――こちらは、大きな逸話の一つ。
*カレッジ・ユニバーシティ・ロンドン(医学生・研修医)時代:Wilfred Trotter (1872–1939)――外科医でありフロイトに論じられた集団力動の著者。ただ、AMSRでは、トロッターとの経験は、Miss Hallとして知られているらしい友人の妹との、「野薔薇」と「婚約破棄」の後で述べられている。
これが30歳前後のことで、それを契機に、彼はJ. A. Hadfield (1882–1967)のところに治療面接を受けに行く。当初の12回という話が、Bléandonu (1994)によれば、7,8年続いたのではないかという。それは医学部生・研修医・精神科専攻医研修の期間にわたり、1930年頃から、彼はタヴィストック・クリニックで精神療法の研修を始める。1934年から35年末にかけてSamuel Beckettの治療面接をしたときも、ビオンはまだハドフィールドに会っていた。後者の影響力は今では想像もつかないが、ビオンがリックマンそしてクラインと出会うことができたのは、精神分析にとってまことに僥倖だった。
*タヴィストック・クリニック時代:Dimitris VonofakosとRobert Hinshelwoodは、創設者のHugh Crichton-Brown (1877–1959)の他に、J. R. Rees (1890–1969)(「英国軍事精神医学の父」と呼ばれている)とIan Suttie (1889–1935)の名を挙げている。
以上はメモに留めて、「集団期」に入ろう。

その前半は、招集され、陸軍医療部隊(the Army Medical Corps)の一員としての仕事である。開戦時には、精神科医は2名しかいなかったのが、終戦の頃には、心理学者と合わせて300人に上ったという。但し、それと反比例して精神医学への敵意が高まり、軍の中での権限から締め出されていったという。ともあれ、ビオンの業務だったものを挙げると:
「シェル・ショック」患者の治療――最初、Craigmile Bottom Hospitalで
・'Command psychiatrist'としてのコンサルタント業務――最初、チェスターのWestern Command at the David Hulme Military Hospitalで
集団治療の構想――萌芽は、リックマンとのthe Wharncliffe Memorandum
しかしビオンは指令本部から配置転換され、一地区の精神科医へ
「下士官選抜試験」方法の新たな提案――医学的に、身体面の検査は結果に結びついていたが、心理面の検査は、時間が掛かり信頼性に欠け、人員が回らなくなっていったので、大人数を捌く効率的な方法が求められた。
ここでは、Bléandonu (1994)のみに基づいて追っているので、詳細は後で修正するとして、最初、1941年夏にスコットランドの司令部で、数週間の試験に代わって数時間で済ませる方法が試され、まずまずの成果を上げた。そこで第二弾として、1942年初頭にエジンバラで、第一陸軍省選抜局War Office Selection Boardという会が実験的に集まった。審査官は6人から成り、3人は軍事的観点から、残り3人(1人が心理学者、2人は精神科医)が特別な観点からの助言を求められた。ビオンはここで選抜局に配置され、]ohn Sutherland・Eric Wittkowerと働いた。その時彼が立案したのが、「指導者不在集団の計画Leaderless Group Project」である(論文発表は1946年。今回の四度目の邦訳に、補論として収載予定)。
しかしこの革新的な方法は――精神分析的な集団力動の理解としては、real life situationでleadershipの問題を通じてwork groupを発見した点が革新的だったが、軍としては、士官候補者を匿名で相互推薦させる道を作るとか、民主化の行き過ぎが飛んでもないことだったのだろう――軍の評価するところとならず、ビオンは望んだ地位を得られず、失意のうちに向かったのが、バーミンガムのノースフィールド軍事病院Northfield military hospitalだった。
・兵士のリハビリテーション計画――6週間で終わった、いわゆるノースフィールド実験。ビオンはウィンチェスターに配転。この実践の報告が、EIG第一部を構成している。
捕虜となった兵士への面接――社会復帰用意を視野に
前線での仕事――ノルマンディーへ
復員の援助――サリーへCivil Resettlement Units

以上でも十分に多様な職務であり、さまざまな集団のさまざまな経験である。しかしこの時期のビオンと集団の関係は、軍人という特定の職業の集団に、上官であるコンサルタント精神科医という立場に基づいていたように見える。つまり、現実の役割が明確にあるために、無意識的なものを外から指摘することはできても、セラピストの立場のように、無意識的な空想の中に入って投影を受けつつ内的世界を理解することには適していない。むしろ徹底して現実志向であること、何が現実的であるかを見極めようとすることが、課題だったようである。
戦後のタヴィストック・クリニックでのビオンの仕事では、彼が集団の無意識的力動に当たる「基本想定」を構想した小集団療法が最も知られているが、それに限られておらず、目的と設定の多様性が認められる。ただ、活動としては、週数時間の非常勤である(幼い娘の養育と生活費を稼ぐことで多忙だったという。加えて、クラインとの分析および訓練症例の面接が始まっており、出費+低収入の中で、ハーレー・ストリートでの開業の患者はどのような層で、どのような診療をしていたのだろうか?すべてが精神療法の患者だったとは考え難い)。
タヴィストックでの活動(Bléandonu (1994)からの孫引き):
・クリニックが提供する治療としての集団療法――この期間は、未確認。1948年以降発表の論考は、それ以前の臨床素材に基づいている。
管理職者10人の集団――軍隊での経験を、産業領域で活かすことを考えていたようである(文献は未確認)。リックマンとサザーランドも参加していたようだが、成果は明瞭ではない。後者曰く、メンバーの二人は十二指腸潰瘍となり、別の三人は終結後、個人分析を受けることにしたという。
・集団療法を行なっている治療者のグループ――一種の事例検討会だったのか、それとも体験グループか。詳細な紹介はない。
・タヴィストック・クリニックのスタッフのためのグループ――クリニックは変換期にあり、特に、NHSに参加するかどうかで議論が分かれていた。ビオンは、自由な意見表明の場として委員会の了解の下で、最初は週1回、後に週2回の「フォーラム」を設けた。
このように、さまざまな集団におけるさまざまな経験Experiences in Groupsが、1948年から1951年にかけて発表されたものの基盤にある。
しばらく離れていたSanfuentes(2003)に戻る前に、彼の身辺の出来事の年譜を挙げておこう。

1938-1939年9月:リックマン(1891–1951)との分析。1年半で中断
  ――以後、軍の精神科医として働く
1940年:従軍の直前にBetty Jardinと出会い、結婚
1945年:長女誕生、妻の死。クラインとの分析の開始(-1953)
  ――以後、タヴィストック・クリニックでの仕事。個人治療への移行
1950年:英国精神分析協会の会員資格取得
1951年:フランチェスカとの再婚
1951年:リックマン没
1952年:長男誕生

こう抜き書きすると、分析経験は結婚に結実するように見える。では、仕事に影響を与えるのは?
Sanfuentes(2003)は、①IJP1952版と②ND1955版の差異を問題にしていた。そこには確かにかなりの異同があるが、①もまたオリジナルではない。Human Relationsに掲載されたのは、1948年から51年にかけてである。
確認すると、第7章は、①の総説に一部が転用されている。とすると、⓪として、Experiences in Groups(Human Relations, 1948-51)との異同も見ておくべきだろう。

⓪ Experiences in Groups(Human Relations, 1948-51)
① Group Dynamics: a Re-view(IJP1952)=?⓪
② Group Dynamics: a re-view(ND1955)≠ ①
③ Re-View: Group Dynamics(EIG第3部)=②


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