LWE :序文・インド1

どの自伝でも、叙述している「私」と体験している「私」がいて、そのどちらかが場と人物を紹介することで始まる。二人は表に出たり裏に回ったりと入れ替わりうるが、当然ながら同じ人であり、原理的に、後で起こることを知っている年長の方が若い自分について、どういう目的からか改めて書いている。執筆の動機は人それぞれだろうが、二人のつながりが信じ難くて、どうしてこんなことになったのか、あるいはなれたのか、と確認したくて書いているように見えるものもある。
本当はこの二人も表現されたものであって、どれほど本物の私に近いのかは不明である。読んですぐ嘘くさいと分かるなら(『羊の歌』とか・・)、むしろ正直に書いていると言えるのだろうか? 背後にいる私もまた、自分のことがすべて分かってはずはなく、偏りを免れないし、逆に、思いがけず素を晒していることがありうる。ビオンはLWEの序文でその辺りを、「可能な限り物自体に近い現象phenomena as close as possible to noumena」の定式化と言っている。但し、見えにくいものが奥にあるとは限らない。
しかしビオンにとってなぜ自伝なのだろうか。彼は自分の企図として、my intention has been to be truthfulと最初に書いている。何のために、何をしようとしてなのかについては、更にby ‘truth’ I mean ‘aesthetic’ truth and ‘psychoanalytic’ truthだと書かれている。では何についての―― I write about ‘me’. とある。私はそれほど謎なのか。私に何をしたいのか。
彼の已むに已まれぬところは、何度読み返しても分からないかもしれない。彼の話法では、年少の私は、これから起こることの訳の分からなさに怯えているのに、思い出すことを強いられていて、それが人生の課題であるかのようだ――これは『未来の回想』の一つの側面だろうか?
諸々を全部飛ばして別の言い方をすれば、若い私は、今の私ビオンを知らないし、私に届く前に途切れてしまったり枝分かれしたままになりそうだったりなのに、ビオンは大成している――1918年8月8日に絶たれたのなら、なおのことである。現に別な未来があるのに、なぜいつもそこに収斂しそうなのだろうか。

埒の明かない話から離れて、登場人物たちを見ると――
まず第一に、アーヤー。親たちよりも先に来て、その年嵩は人間離れしていて元型的archetypal、ユングについて彼が公式に何か言ったことがないけれども、想起させる。
それから、忌々しくも羨ましくもある妹。彼は随所でひどいことをしている。
次が母親。「怖いところがある」「奇妙」がその形容詞句。
そして父。厳しく感じやすく・・後でまた見よう。
欠くことのできない存在が、アーフ・アーファーである。ここで訳の問題。Arf Arferは、元がOur fatherであってももうアーフ・アーファーでいいとして、Oo Arf in Mphmは?Mphmで引いても、ビオンのこの個所かその引用しか出て来ない。ビオンが強く恐れるところから、この子音の塊りには動物の咆え声か唸り声が入っていないか、と思うが、どうだろうか。それはジャングルや空にいて、最悪の時に召喚されて登場する。
この一例でも分かるように、子供時代のビオンにとって言葉による存在は大きい。言葉が存在である。「ゴールデンシロップ」が黄金で出来ているのかどうかを聞くのは、実物を知らないからだろう。彼の好奇心は、言葉を文字通りに解釈しようとする以外の、別のあり様にまだ向かわない。

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それともビオンは、これの中に金の痕跡を見ようとしたのだろうか?
ゴールデンシロップと金、純粋と応用の峻別、それから妹への親を真似た懲罰は、辞書的定義に基づいて、そうであるはずの規則をビオンが適用したものである。妹の横面を叩くのが、彼が法治としてすべきだと考えたことである。悪い=叩く。一体誰の実践を真似ていたのだろうか。
彼は父親に叩かれる場面については書いている。それで親のするべきことを代行した、のだろうか。それでは、感じ考える心がないmindless。

しかし、殴打行為は躾けのただのコピーだったとしても、妹に何も感じずにしていたわけではあるまい。
メイソンは、ビオンが或る患者について、「解釈が新しい同胞であるかのように反応している」と評したと言う――I thought that was wonderful, that feeling of something coming along, disturbing King baby and his servants and in comes this usurper and all the dismay that that produced. 別の論文では、ビオンが「反応」についてはっきり攻撃と言ったことが載せられている。
妹は生き生きとし過ぎていて、危険である。兄でも姉でも弟でもいいが。

文献
Mason, A. (2000). Bion and Binocular Vision. Int. J. Psycho-Anal., 81(5):983-988
Mason, A. (2018). Albert Mason on ‘Bion and Binocular Vision’. PEP/UCL Top Authors Project, 1(1)


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