集団力動と乳児観察からの例

全寮制のパブリック・スクールにいじめの温床があったことは、出身者たちが証言を残している。faggingにはパシリのような役割も含まれるが、背景にはもっと全体的な秩序がある。Margot Waddellは、『長い週末』の一節を引いて、いじめと喪失や別離との関連を論じている。それはまた別の機会として、乳児観察の例が興味深い。それが例になるのは、この種の暴力的支配が、場面や登場人物が入れ替わっても続くからである。

「以下は、生後16ヶ月半のジェイミーの或る日の30分の報告である。そこで起きた交流は明らかに、この幼い少年の人生の、情動的な大波に寄与していた――その大波は、条件が僅かに違えば、思春期には「ブレイカー」 をかなり手に負えない度合いで投げ出す可能性がある。(ジョシュア〔論文の別の例〕と同じく、母親-幼児間の相互作用のこうした観察は、週1回2年間にわたって行なわれた。)
この家庭では食べ物が特に問題のある領域であることは、以前から気づかれており、ジェイミーの姉メアリー(3歳)は激しい偏食で、痛ましく、危険でさえあるほど、痩せていた。この日メアリーは、いつもになく母親に、「おなかがすいた」 と言った。母親は携帯電話で会話をし続け、「じゃあ、何が食べたいの?」と言うと、娘を無視した。メアリーは答えず、母親が話し続けている間に、台所へ姿を消した。彼女はすぐに、何かを手にして戻ってきた。彼女は観察者が座っているところまで来て、ホイルに包まれたチョコレートビスケットをこっそりと肘掛けを越えて椅子に滑り込ませ、悪戯っぽく微笑んだ。母親は目を上げて厳しく言った。「メアリー、どこでそれを手に入れたの?」彼女は手早く電話を切り上げ、観察者に向かって、メアリーはチャイルドロックの外し方が分かったので、今ではビスケットを置いた食器棚に入れるのだと言った。メアリーは観察者の椅子からチョコレートビスケットを拾い上げて、ちょうど部屋に入って来た弟のジェイミーにそれを渡した。彼もホイルに包まれたビスケットを手にしていた。
母親は、「それはママのよ」と言った(確かにチョコレートビスケットは、母親のために取り分けられており、子供たちは健康上の理由から、米のクラッカーでおせんべいで間に合わせなければならなかった)。彼女はジェイミーを呼び寄せ、彼からビスケットを取り上げるとそれをテーブルの上に置いた。彼は全力でビスケットの方に向かったが手は届かず、すぐに怒り狂って動転した。
母親は、彼の欲していることが分からないかのように振る舞って、こう言った。「何が欲しいのかしら。はさみを持ってはいけませんよ」。ジェイミーは母親に向かって罵り、床に大げさに倒れて、慰めようもなく涙を流した。母親はあたかも悪意がないかのように、「ああ、それを切って開けてほしいのね?」と言った。彼女はビスケットを手にして、包みの上の部分を切り取ってジェイミーに返した。彼は起き上がり、ビスケットを持って長椅子まで歩いた。彼はそれによじ登り、その真ん中に座ってビスケットを食べようとしたが、それは包みから顔を出していなかったので、指で欠片を取り出すことしかできなかった。メアリーも同じ様子だった。
観察者は、ジェイミーが自分の膝の上に落ちた欠片を不安げに払い除けながら、必死で包みからビスケットの欠片を取り出そうとしているのを見ていて、強い不快を感じたと述べた。彼の母親は鋭く叫んだ、「散らかしているわね、ジェイミー?」「ううん」と彼は急いで言った、「ほら、ないよgohn」。彼は更にものすごい勢いで欠片を払い落としていて、あたかも何とか「良い子」になろうとしているかのようだった。彼の母親は威圧的に、「何をしているのよ」と言った。彼女が彼の方に向かった時、その声の調子には押し殺した怒りがあった。「食べ終わったなら、ゴミ箱に入れてね――さあ、ジェイミー、ゴミ箱に入れて、台所のよ」。ジェイミーはビスケットをほとんど食べ始めてさえいなかった。彼は困惑して彼女を見上げ、身をかがめて、プラスチックのおもちゃのカップを手にした。彼は台所へ向かった。彼は片手にビスケットを、もう一方の手にカップを持っていた。彼はすばやくビスケットをつかんだまま、カップをゴミ箱に入れた。母親はきっぱりと言った。 「だめよ、ジェイミー」。彼女はカップをゴミ箱から取り出し、ビスケットを彼から奪い取って代わりにゴミ箱に捨てた。ジェイミーは激怒してわっと泣き出した。彼はひどく腹を立てて、ビスケットを拾おうとビンの中を引っかき回し始めた。母親は介入した。彼女は彼を持ち上げて居間に運び、躁的にくすぐり始めた。ジェイミーの顔に混乱してかなり絶望的な表情が現れ、喜んでいるが決して幸せ一辺倒ではないように見えた。母親が床に下ろすと、すぐに彼は彼女から身を投げ出し、欲求不満と苦悩が交じったすすり泣きをしながら、床をこぶしで叩いた」。

Waddellは長くはない論文で臨床素材を幾つか引用しているので、この観察についての解説はごく短く、「倒錯的な『いじめ』が、その振る舞いの意味を理解することも対処することもできない幼い子供に強いられており・・彼自身が怪我をしたり姉に攻撃的になったりしている」と述べて、「母親の愛情剥奪が子供に投影されている」としている。そして、小さい子供二人が育てば状況が改善するのかもしれないし、さもなければ、ジェイミーが問題を起こすようになると結んでいる。
このような残酷さは、観察されているからこそ実演が極端になって、観客がいなければそこまでではなく、単に放置、ネグレクトが続くところかもしれない。というのも、この特殊な形式による観察では、その場にいて自然な会話はしても、育児を手伝ったり専門的な助言をしたりすることはないので、与えるようでいて与えない、欠片しか与えられてない、と母親によっては感じるかもしれないからである。ビスケットの袋を一部しか切らず、全部を取り出せないようにして、しかも食べ始めたところでゴミ箱に入れさせるのは、時間限定観察の構造が反映していなくもない。
そうは言っても、この母親の特性があることだろう。30分の観察に現れたことは、この日のこの時間のみのこととは考えにくい。ジェイミーへのビスケットの与え方は、授乳時代から続いていても不思議ではない。もう少し詰めて考えると、母親は、じらし屈服させるような関わり方をしている。それは、主体性や積極性を伸ばすのではなく、嘲笑し無力を感じさせて挫くやり方である。だから、受身性の強い新生児・乳児状態の時には、問題がなかったんかもしれないし、子供が二人になってから顕在化したことかもしれない。ともあれ、姉は既に「危険でさえあるほど、痩せている」。それが姉自体のこだわりによる偏食と通常を越えた対応の難しさのためなのか、サバイバル状況のためなのかは、分からない。この家族には、カースト制ができつつあるように見える。姉弟は、最下層に落ちないように争わされている。このような状況で、父親にはどのような権威があり、機能しているのだろうか。

Waddellは「いじめの精神力動」論文を、ビオンが『長い週末』の英国篇5で用いた'undirected menace'を説明概念に取り上げ、'resilience'を解決と言わずとも耐え凌ぐ鍵としている。Waddellはこの語を、問題の連関を因果論的にも付随的にも捉えないために――誰かのせいにしたり、もっとこうすればよかったのに――という図式に陥らないために用いているようである。さてこれは、「誰に向けられたでもない脅威」ということでよいのだろうか。その「脅威」は何処から湧いてくるのか――集団心性そのものからか。それとも、指導者のいないundirected状況が、脅威を湧き立たせるのか。
この語句は、全集で検索を掛けても、「英国篇5」で二回登場するのみである。この個所の読み直しの際に、再検討するとしよう。

文献
Waddell, M. (2007). Grouping or Ganging: The Psychodynamics of Bullying. Brit. J. Psychother, 23(2):189-204

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