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無関心コミュニティ化計画(素案)

入社から早くも4ヶ月が経過した。
だが、久しぶりに会い、転職したことを報告する友人たちの目の前でのメニュー選択には、いまだに慎重にならざるを得ない。
タイミングも見極めず無邪気にライスカレーを注文しようものなら、
「あいつ、変わっちまったな」
「正直、何がしたかったんだろうね」
などと陰口を叩かれても、文句は言えない。

誰か正解を教えてほしい。


この会社に来てからというもの、よきカレー屋を近所に5軒ほどは見つけたし、なんならそれらをローテーションする日常すら夢想する。
ああ、そんな健全なカレー好きの市民から、あらんかぎりのカレー要素をはぎ取ろうとしてくる運命のいたずら。

もしかして自意識過剰だろうか。

カレーだけがいない並行世界

この前置きは不要だったかもしれない。
ともかく私は、望むと望まざるとにかかわらず「カレーのないパラレルワールドを生きよ」という天啓を得たと思うことにした。
さっそくフローを組んで実践してみる。

その①:逃げ道としての、できる限り多様なランチを模索する。

ひとまずカレーがなさそうな知らない店を訪ね歩く。
その数50店舗近くに達した(2022年8月5日現在)。

その②:まずは自分が好きなものを食べる。

「そのときの気分」みたいなものがあまりない私の選択は、基本的に「そこにカルボナーラがあるならカルボナーラしかない」と盲目的。
しかしながら、初めて入った知らない店では、私の脳内の想定外なメニューが提示されることが少なからずある。
そんなとき、私は本当に選ぶことに困難を覚えつつ、「おまかせで」と言ってしまいたいのをぐっとこらえ、目をつぶって(ほんとはつぶってない)無作為に選ぶことにする。

その③:次回以降、これまで食べていないものを食べる。

知らない店も一巡し、やがて「初回で美味しかったお店」の2周目、3周目に入っていくのだが。
ここでも私は、私の嗜好のどこかからカレー的な要素を嗅ぎ取られるかもしれないという懸念から、「これまで食べていないものを食べる」という謎ルールを自分に課すことで、さらなるリスクヘッジにいそしんでいく。
(実際には、我慢できずちょいちょいカレーを食べているのだが、ここでは触れない)

コマンド的に並べるとこうなる。
「私は、知らないお店を訪ねる」
「私は、自分が好きなものを食べる」
「私は、自分が好きなものがないとき、無作為に選んで食べる」
「私は、これまで食べていないものを食べる」

結果、
「私は、少しずつ自分の関心から遠ざかりながら食べ続ける」
ことになる。

この実践により私が得たもの。
それは、
「『人生損してた!』という偶然にも幸福な出会いランチ」
ではなく、むしろ、
「別に嫌いじゃないのに、不思議とやっぱり選ばないランチ」
「中途半端に情報が入ると逆に選べないから、むしろ全編タイ語とかでお送りしていただいて直感だけで選びたいランチ」
があるという気づきだった。

私は判ってくれない

そんなとき、この仮説のことを思い出す。

これは、
「一見情動とは関係なさそうな意思決定においても、情動的な身体反応が不可欠な役割を果たしている」
とする仮説らしい。
どういうことか。

そもそも、人が何かを判断するときには、たとえどんなに些細なテーマだったとしても、なんらかの根拠や材料を必要とする。
それは、わかりやすいところで言えば、直接関係がありそうな過去の経験や知識の蓄積、あるいは外部からデータとして得られるような定量的な情報。

でもどうやら、そういった自分が判断材料と認識しているものだけをもとに判断している、とは限らないらしい。

蒸し暑くて不快だったこと。
柔らかくて気持ちよかったこと。
嫌な汗をかいたこと。
あの人に話すだけでなぜかいつもすっきりしたこと。
君が素敵だったこと。
忘れてしまったこと。

これら、そのときどきに得た感情の動きや身体反応(「快」「不快」、「好き」「嫌い」、手汗をかいたり、わけもなく喉が渇いたり)≒情動は、経験と結びつきながらより抽象化された形で、脳の奥の方にひっそりとストックされていく。
そして、そういった過去の情動とは一見関係なさそうな(あるいはむしろ「快」や「不快」といった要素が邪魔になりそうな)テーマも含め、あらゆる意思決定の場面において、自分も知らないうちにそれら情動が重要な役割を果たしている、というのが、この仮説の提唱するところだ。

人は、手元にある限られた情報と情動を頼りに生きている。
なるほど。

例えばテーブルで向かい合って、お互いの引き出しの中身を差し出しあう二人。
「これ大好き」
「俺も偏愛」
「でもこっちも気持ちいいよね」
「ああ、ならあれは知ってる?」
「え、すごい。なんで知ってるの?」
「もしかして俺たち…」

そんな、光の速さと熱量でお互いの好きと好きをぶつけあって食べ尽くすような関係性は、まぶしいけれど、それゆえに往々にして儚い。
すでに手元にある好きは、遠からず枯渇し、あるいは陳腐化する。
そして、終わりなき消費のスクラップ&ビルドを繰り返すことになる。

人が情動を抱えることで、まともな判断が担保されているのだとすれば。
日々瞬間的な取捨の連続を生きている私たちにとって、情動を自分の中で育てることが、より精度の高い意思決定につながるとも言えそうだ。
より多様なベクトルで、より振れ幅の大きな情動を育てる人は、その分早く、的確な判断をすることができるようになる、と。

このとき、自らの生存戦略を最適化しようとすれば、人は既知の「好き」や「快」以外も積極的に選び取らざるを得ない。
むしろ、既存の快や不快の外側にアクセスし、その自覚が揺らぎ続けるような環境に身をゆだねることが、自分と、自分を取り巻く周囲の関係の持続可能性につながるのではないか。

例えば、趣味も性格もまったく違う人たちの寄せ集めなのに、えてしてゆるやかに長く続いたり、むしろ熟成すらされていったりする関係があったりする。
シンプルにほどよい距離感や、互いの凸凹を充足し合っている心地よさみたいなものがある可能性はもちろんとして。
実は、奥底に寝かされていてノーマークだった自分の関心や違和感、ときどき不快感をも、呼び覚まし続けてくれることへの期待感みたいなインサイトもあったりするんじゃないか。

Prototype for 無関心

そう、自分が知っている快や不快のことなら、もう知っている。
むしろ、
快でも不快でもないもの。
どうでもいいと思っていること。
まだ知らないことすら知らない情動。
に、アクセスしようとすることが重要だ。

だから、無関心の種に水をやろう。
情動の芽に光を当てよう。
温めても花は咲かないかもしれないけれど、よりよく選び、楽しく生きる一歩にはなりそうだ。
でもそれは一人ではできない。
外から水をまき、光を当ててくれる誰かや何か。
つまり、無関心コミュニティが必要だ。
そして、そのコミュニティをサステナブルにしていくには、サポートツールももちろん必要になるだろう。

例えば、こんなプロトタイプはどうだろう。

・無関心ビンゴ

テーマを設定した上で、あらかじめお互いの無関心そうなものを想像してビンゴの中身を埋め尽くす。
自分が好きなものを順番に発表していく。
先にビンゴになった人が負け。

・無関心ABテスト

被験者の興味の無さそうな選択肢をどんどん提示し、選び取ってもらう。
次々に提示される、より関心の薄い選択肢に答え続けた先に残るのは、それでも譲れないコアな何かなのか、それともただの余白なのかは、神のみぞ知る。

・無関心トラベルジェネレーター

旅行希望者が明らかに無関心そうな場所や旅程を、AIが勝手に組んでチケットを発行。
いやおうなく無関心トラベルに連行されたその人は、いろんな意味で帰ってこれなくなるかもしれない…

その他、無関心占い、無関心スタイリスト、無関心レシピ、無関心整骨院、無関心スタンプラリーなど、無関心を手なづける種には枚挙にいとまがない。
ぜひ検証への協力をお待ちしている。


次回のnoteでお会いしましょう!
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