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蕗ノート リアルよりリアリティー

朝日町に立ち寄り、夕陽を眺めながらりんご温泉の露天風呂に入る。



3年前のちょうど今ごろ、私は
「夕陽が山に沈んだ!私は見た!」と書いた。

夕陽は街ではビルの間に沈む。

山に沈むと聞いた夕陽が
本当に
山に
沈んでいった。

鶴岡に行って知ったこと。

夕陽は
海に
沈む

しかし、海を越えたその先の大陸では、
また山に沈むのか
それとも砂漠なのか
本当は沈んだように私たちからは見えるだけで本当は沈まないのか

いまは、とりあえず私は山に沈むと海に沈むが本当だったと知った。
 

知識で得られること
塩は海水で出来ていること
川は山から流れてくること
ヘビはネズミを丸呑みすること

ひとつひとつ確かめてみなきゃ本当か分からないのにいかにも本当なようになっている世の中。

私はこの地でひとつひとつ確かめられることに生の実感を感じる。 

山を教えてくれた師匠はお前はこんなに教えて貰って幸せだと言った。
それは違うといまは思う。
見つけること自体がルーティーンになるなんてなんてつまらないこと。

それを見つけるまでの濃密な時間の中にこそ、生き生きとした生があるのではないだろうか。

それが仕事となって、ルーティーンになるならそれは工場労働と変わらないのかもしれない。

飛行機で色んな所に行けてしまう自由よりも
それが無かった頃の飛びたくて飛んでみたくてワクワクしているその中の濃密な時間

人がやってみたかったことそれがどんどん現実に、形になり、そして、今は「焼き増し」や「スマホの中にテレビをつける」ぐらい小さい変化しか起こせないのか。

靴を履かなきゃいけないって誰が決めたのか。
私は靴を脱いで歩いてみて、アスファルトの固さを山の土の柔らかさを知ることが出来た。

見たこともない世界を、それは外国をという意味ではなくてこの私の外側にある全ての現象をネットやテレビで満足してしまうなんて勿体ない。

何のためにこの体を与えられているのか。

鮭の腹を捌いて、その中身に驚いたような日々を世界はもっと知らない…に満ちていて、驚きに満ちている。

ハイロウズの「14歳」という曲に「リアルよりリアリティー」という歌詞がある。
私はここ、山形で一生かかっても捕まえきれないほどのリアリティーをもっともっと捕まえたい。

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