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蕗ノート 命は命に敏感

「死の香り」がした。

それは、嗅いだことのある香りで私はその香りを避けるように歩いた。
どうして他の人はその香りの中で平気でいられるのか、私には分からなかった。

遠慮をしているのか。
それとも私だけが感じていて他の人は本当に気づいていないのか。

仕草、体つき、表情、言葉から出てくる「その人」は訓練すれば読み取れるようになる。
 

「なぜ、他人のことが分かるのか、何か聞こえているのか、見えない誰かが教えているのか」

とスピリチュアルに興味のある方からは聞かれるけど、「見えない誰かの声は聞こえない」
 
 
他人のことが分かるのは「他人のことが分からなくてとても辛い思いをし、他人のことが分かる人間になりたいと努力したから」



「死の香り」のことは、それが違って。
その香りを漂わせる本人はもちろん、家族、友人もその匂いには気がつかないそうなのだ。

なんだか、自分が「炭鉱のカナリア」みたいな気分になってくる。
死の香りにやられて倒れそうになっているのを周りの人は不思議そうに眺めている。

長崎で原子爆弾が落とされたまさにその場所に、今年の春に立った時、私は特にその場所をなんとも意識していなかったのに、ものすごい死の香りと吐き気、胃がよじれる感覚を体験した。

その場所は、祈られることもなく、慰められることもなく、焼け死んだ人々の上に土が盛られ、人々はその下で恐らく今も蠢いているのだ。

現代思想家の内田樹さんが著書で「邪悪なものの見極め方」という言い方をしていたように思う。
気功をやっていたせいか、気の合う場所・気の強い場所・気の通っている場所を簡単に掴むことを10代の頃から生活の一部のようにしてやってきたけれど、この「死の香り」と出会うようになったのは最近になってからで、これが一体どうなのかというのも私にはまだわからない。

ただ、私には同じような訴えに聞こえた。
「この体を助けて!」という生きている体からの切実な声と
「ここから出して」という長崎の爆心地からの声。


生きている間に出来ることは生きている方に。
そして、人間に祈りがあるのは、具体的に何かをしてあげることが何も叶わない時の救いなのだと思う。


言葉にならないもの
それをこんなにも「言葉にして伝えてよ」と言われているようなことが多くて嫌でも自分の役割というものを考えてしまう。

私の心も体を親も私も「そのまま」育てた感じがしている。

そのまま育てられた命は、鈍感に慣らされていないから敏感だ。だから命に敏感になる。

死の香りの中を平気で生きていける生き物だらけになった時、私は生きていけるのだろうか。

夏だ。水槽の金魚が、酸素が足りなくて苦しんでいるみたいな感じでアップアップしてるのは私。

気温が上がれば、固体から液体、液体から気体へ
水に取り囲まれて生きているような、そんな夏真っ盛り。

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