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三村エレジー 蕗ノート

子どもの頃、秋田の人達に、山での山菜採りや川での魚採り、ウサギがり、色んなことを教えてもらって育った私は、18歳になった頃、かつて秋田の人達が教えてくれた色々な生きるための技術がどんどん無くなっていっている(人が亡くなるので)ことに気がついた。
 
かつて、山から原木を切り出して、皮をむいて、キノコの菌うちをして、というようなことは、その辺りに住んでる人ならキノコ農家じゃなくても誰でも出来たのにいつのまにかそんなことを出来る人はわずかになっていました。

20歳を過ぎた頃、秋田の隣の村に原発の核燃料の処理をする計画が上がった。そんなものが出来たら好きだった山も川も何かあったら一瞬でダメになってしまう。
今、思えばその時に「守りたい」という気持ちが初めて生まれたような気がする。


秋田の役場の試験を受け、ハローワークで職を探すも見つからず、お前にそんな安い給料の仕事させるのは忍びない、東京で就職しろと言われ、せめて田舎で役立つ技術を身につけようと植木屋に就職したり、東京で働いたりして私はいつの間にか27歳になっていました。
 

会社でいじめの上リストラされ、何をどうして生きていったらいいのかという日々を過ごしていた時、私は20際の頃の気持ちを思い出した。

私が守りたい山の暮らしが出来るかはさておいても、守りたいのに東京にいたら守れない。だから田舎へ行こう。でも、私が好きだった町は、高齢化が進みすぎている&陰湿さがヤバすぎるという問題があって、飛び込むには当時ハードルが高すぎた。

だから、いつかここに戻って来るにしても、まずは田舎へ。そんな感じで行ったのが朝日町だ。

移住して4年。
いつの間にか、山に入ることが増え、とはいえ文章を書くのが上手いと言われ、文章の仕事は増えたものの、私は田舎で都会みたいな暮らしがしたいんじゃなくて、とにかく山奥の文化を残す人になりたいんじゃい!!!
という思いだけが膨れ上がってにっちもさっちもいかなくなっていた時、新潟の山奥で、木の皮から繊維をとって布にするシナ織という技術を受け継ぐ人を探しているという話があり、話を聞きにいったら、こんな暮らしをしている人達がまだ日本にいたんだ!という感じになり、まんまと新潟に住むことになった。
 
 
三村エレジーは沖縄民謡で、歌手のCoccoがアレンジしていて、私は今、その曲な気分。

行逢りば兄弟 信じて開けたら
根こそぎ 盗られて裸
 
 
沖縄だけじゃなく、東北もなのです。
この間は、六本木ヒルズの会社が来て、三瀬に風力発電を作る説明会をしていきました。

その電気は東京へ行くのに。風車が出来たら、色んな鳥がいなくなったり、生態系も変わってしまうのに、そんなことは知ったことかというようなこと。そして、いつか風車が朽ちるて倒れるなんてことは考えていないその会社にものすごい憤りを感じたその日は眠れなかった。

 
食い物にされる。ブランド戦略プロデューサーに町が食い物にされたように。
心が潰されている人もあった。外へ外へという目線はどんどん内側を滅ぼしていく。
 
 
私はやっぱり、守りたいのだと思う。
全ては守れないけど、手の届く所までは守りたいのだと思う。
 
そしてそれには、周りの人もそう思ってくれないと苦しくなってしまうということに朝日町にいた時に気づかされた。岩のごとく動かず、都会から来た人のいいようにされる。そして愚痴る。それで終わっちゃダメなんだ。
 
 
新潟の山熊田は、1992年まで冬は雪に閉ざされて、除雪もなく8㎞下らないと隣の集落に出られない場所でした。
そのお陰か、地域の人達は寡黙だけれど、自分をしっかり持っている人が多いのが印象でした。
 
 
消えゆくもの。
消えないで!って叫んだって、泣いたって、それを止めることが出来ないなら、せめて一個でも消えないように、そんなことが出来る存在になりたい。それには、覚悟を決めて山で暮らしを継いでいくしかない。
 
 
そんな感じで転機が訪れた4月なのでした。
山奥ですが、海までは車で20分!(ああ、車って便利)
 
風光明媚な国の名勝地、笹川流れの海と
朝日町の頃から変わらない朝日連峰と
 
 
これからは守るために、生きていきたい。
そして、新潟に行く前に会えたのが、東京に住んでいた頃の大切な人達。
7年ぐらいの付き合いの人達は、こんな試行錯誤の連続で、ひどい状態なことも多い私とこんなに長く付き合ってくれている。
 
山形に行く前には、毎日のように送別会をしてもらい、帰ってきたらお帰り会を開いてくれた。
新宿に仕事で来た時には、色んな人がダイキン工業のショールームに来てくれた。

初めての冬にはスキーに12人も来てくれて吹雪だったのにとても楽しかった。
 
うちに遊びに来て仲良くなって結婚した人達もいる。
  
 
山形で友達が出来て、楽しい日々を送ってるし、秋田の人達ともたまに一緒にキリタンポ作ったりするし、全国に友達が出来て、色々渡り歩いてるけど、東京に戻ると、帰ってきたなぁ…って感じがする。


私にふるさとがあるとすれば、それは東京にいた頃から続く仲間なのかもしれないと思った。
結婚しても、子どもが出来ても、私のように田舎にいってしまっても、緩やかに続いていく、優しさみたいなものに触れて。

そして、そのグループのお父さんみたいな人に
「ばたぁ(私のあだ名)は、ばたぁが思っている以上にうまく掴んでると思うよ」と言われて、ああーなんかみんな私よりずっと稼いでるし、仕事できるし、とか色々あるんだけど、そういうのじゃなくて、人同士で生きていれていて、これからもきっとそうなんだろうなって思ったし、そういう存在があるから、勇気を出して進んでいけるのだと思った。
 
ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそうぎゃーてーぼーじーそわか

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