外向型の私が大人しい訳
私ってよく「大人しい」って言われるんだよね。
でも、決して大人しくしているのが合っている訳ではない。
本当は喋りたいんだけど、大人しくならざるを得ないという環境にいる。この表現が最も近い。
外向型になりたい内向型?
私は外向型になりたがっている内向型ではない。外向型ステレオタイプとほぼ真逆の外向型だ。
内向型の人達は、必要以上に考えを外に出すことを好まない。
私は考えは外に出すべきものだと思っている。
内向型なら親しくなるまではあまり自分の事を打ち明けない。
私は初対面の人に対しても友達と同じくらいオープンでいられるしプライベートな話をするのも抵抗がない。
だけど、私も内向型の人達も同じようにあまり喋らず過ごしている。
この違いは何だろうか?
道徳が喋る事を制限した
内向型の人であれば、考えを自分の中に留めておくからこそ落ち着く。
私は考えを自分の中に留めたままにしていては落ち着かない。
言葉にして出したいのに、固い壁が喉の奥にあるみたいな感覚になり言葉が出ない。まるで厚い壁にぶつかったまま進めないエンジン全開の車のように。
内向型みたいに自分の中に留めて満足できる人ならどれほど良かったかと思う。
私は外向型だ。話せない外向型だ。
その壁を作っているものは何なのだろうか?
遡ること4年。私は中学生の頃までは今と比べ物にならないくらい積極的な人だった。仲良くなりたい人がいれば自分から抵抗なく話しかけに行った。気になる人がいれば違う学年の教室にも呼び出しに行った。授業中の発言もクラスで一番というほどたくさんした。
ある日のこと。私は先生に呼び出され、こう言われた。
「授業中にすぐ発言するのやめてくれるかな?あなたが発言するとみんなの考える時間が無くなって迷惑なので。」
先生から質問投げ掛けてる癖に。と思ったが、自分って迷惑だと思われていたんだな…という気持ちの方が強くて何も言い返せなかった。
「なんで発言することが迷惑なんだよ?」と疑問に思いながらも、それを期にその先生に「どうだ。言う事聞いたんだからもう迷惑じゃないだろ。」と反抗するように、一切発言しなくなった。
もう1つある。
自分から話しかけに行こうとした時、同級生に引き止められてこう言われた。
「ダメだよ。今は他の人と話してるんだから。」
内心ではお前何様だよ?みたいに思っていたけど、やっぱり周りに迷惑をかけたくないという気持ちの方が強くてそれを言われてから一人でいる人以外に自分から話しかけられなくなった。話の輪に入ることが怖くなった。
本当は、こんな事に繊細になんてなりたくない。これが世間の多数が求めるものであっても私はしたくないというのが本音だ。
積極的に話に割り込んで行く人を見ると憧れる。あれが私にとって最もやりやすい人付き合いのやり方だから。
「積極的なのは悪いことだ」という価値観が今も根付いている。
道徳は、私を容赦なく無口にさせた。
話す事も悪いことじゃない。むしろ言わないと伝わらないと分かっているはずなのに、積極性を抑えろと言われた過去が原因で私は積極性を失った。
このまま無口を極めて内向型になろうとするより、以前のようなお喋りな人に戻れた方がよっぽど楽だ。
だから何の効果かは知らないが自らを内向型ではなく外向型と言い聞かせることによって本来の自分を取り戻したい。
私に注意した先生や同級生と同じ価値観を持っている人からすれば嫌われるかもしれないが、そういう人とは距離を置けばいいだけだ。そういう人が全てだという固定観念を捨てたい。
私は制限されて生まれた内向型の私ではなく、元から備わっている外向型の私として生きていきたいんだ。
高校デビューを目指す
「もう中学のことなんて忘れてしまえ。もう他人の価値観に動かされてたまるか。私は今度こそ自分の望み通り動くんだ。誰の操り人形にもならない。」と強く誓い、中学の同級生みんなと縁を切り、同じ中学出身の人が誰もいない高校へと進学した。
「中学のレッテルは全て捨てて、これからは組の代表のように見られるように生きるからな!」
朝登校してきたら教室にいる人全員に名前を呼んで挨拶をした。入学の次の日には前後左右の席の人と一度は話していた。勉強も徹底的にして学年1位を取った。掃除の時周りがふざけようが自分はそれに便乗することは無く、てきぱきとこなした。
クラスメートからは「真面目だよね」「何でもできてすごいよね」などと言われた。
卒業までこのまま順調にこのイメージを保つつもりだった。
でもそうはいかなかった。
新しい環境に体がついていかず体調不良を起こして、それにより頻繁に遅刻するようになった。
やがて、「なんでそんなに遅刻するの?」と笑われたり陰口を言われるようになった。事情を説明しても『遅刻常習犯』のレッテルは取れることなく、「こりゃもうダメだ……」と思うようになった。
周りから良いふうに見られるための努力だったから悪く思われた限り何も頑張る気が無くなった。今まで頑張っていた事が次々とできなくなった。
そこで私は気付く。
「頑張らない方が向いているのではないか?」
もう自分を偽るのはやめよう。できる人のように見せて疲れるのはやめよう。そう誓った。
「ダメな人」「問題児」と言われてもそれが私のありのままだ。私が受け入れるべき事実だ。
ありのままでも受け入れてくれる人だけ大切にしよう。
そう思うようになった。
人に興味を持たないようになった
私は高2の頃からいじめや嫌がらせの被害を受けるようになった。
その時、唯一ずっと私の味方をしてくれた人がこう言った。
「そこまでして人と関わりたいの?嫌なのに無理に関わろうとする必要なんてないじゃん。クラスの人達と距離置いたら?」
人といても嫌がられるだけだ。仲良くなろうとしても嫌われるだけだ。
そんなことを考えていると、人付き合いがだんだん意味のないつまらないもののように見えてきた。
「そうだ、人以外に興味を持てるようにしよう」
そう意識するようになった。
人付き合いが全てではない。世の中には人以外にも素敵なものがたくさんある。無理していわゆる『イケイケJK』になる必要性なんてどこにもない。
だんだん私はクラスメートなんてどうでも良いと思えるようになってきた。
修学旅行も行かない決断をした。
クラスメートから距離を置き、学校では1人で過ごし、下校後はその唯一の友達と散歩やカフェに行った。季節ごとに変わるインスタ映えスポット巡りもした。
その時、初めて「友達は量じゃなくて質だ。沢山の人と仲良くなれなくても、理解してくれる人が1人いればそれで充分だ。」と思えた。
積極的に数を増やそうとするのではなく、本当に仲が良い友達を大切にしていこうと、そういう方針へと変わった。
だからそれを分かっている外向型として、「外向型は友達がたくさんいる」「内向型はぼっちか友達が少ない」という偏見はやめてほしい。偏見ではなく傾向だとは思うけど。
「友達の多さ」「分かち合える人の多さ」は外界に興味を向ける性質に比例する訳ではない。私のように外界に興味を持つが人間関係が上手くいかない運命を持つ人もいるのだから、運命を絶対のように広めてほしくない。
友達の多さも、社会適合能力も外向性ではないんだ。似ているようで全く異なる問題だ。
以上、滅多に居ないと思われる大人しめの外向型より。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?