【雑記】忍殺とオクシデンタリズムと

 人は多少の差異はあれ、異郷に憧れを抱くものらしい。まだ見ぬ土地、文化、人々、世界を渇望する。オリエンタリズムの例を挙げればもう十分だ。また逆も然り。西洋への憧れ、オクシデンタリズムは我々の胸にある。
 "Ninja" は現代のオリエンタリズムの産物である。Sushi, Geisha, Ninja... 日本文化は輸出され、オリエンタリズム・フィルターと情報不足&想像力により加工され、一種のカリカチュアとなった。それは日本の外に存在する日本ならざる日本である。

 そのカリカチュアを逆輸入し、もう一度カリカチュア化したものがニンジャスレイヤーだった。その二重戯画――一度目は他文化による戯画化、二度目はネイティブによる戯画化――と『ニューロマンサー』や『ブレードランナー』のミクスチャ、そして独自の言語感覚が融合を遂げたのである。無論、それは世界観や文章のギミック、あるいはスパイスであって、根底のR・E・A・Lさが現在までその人気を牽引するエンジンであろう。

 オリエンタリズムやオクシデンタリズムによる戯画化。日本産の西洋ファンタジーはまさに "Ninja" と同じ構造を持つ光学異性体である。トールキン以後に模倣されたるハイファンタジー。そして米国のRPGとオクシデンタリズムが融合し、独自に発展したドラクエ風、FF風の "ゲームファンタジー" 。現在のジュブナイルの底にもオクシデンタリズムが流れ、"西洋の変奏としての異世界"への憧れが根を張っている。

 なぜこんなことを書いているかと言うと、確定申告の準備をサボりつつ、AmazonPrimeで『魔法使いの嫁』を見たためである。とても分かりやすいオクシデンタリズムだ。そして恐らく、英国人がこれを見れば、我々が "Ninja" を見たときと同じような感覚に陥るに違いない。(この作品を批判するつもりはない。アートワークが実際良い。あとついでに言うとメイドインアビスめっちゃよかったで)

 何にせよ、まだ見ぬ世界へ我々を Drive する力が創作物が持つ魅力の一つである。そう、"一つ" であって、主たる柱になる要素はまだまだある。例えば、純文学(ガラパゴス私小説)は流麗な文章に加え共感を柱とする。思春期に読む太宰は特別心臓に刺さる。教科書の山月記を読むとつらみがあふれる。

 それはそれとして、いわば忍殺の海外版のような、西洋人の手による和製ファンタジーのカリカチュアってないのかな~、と軽く思った、というだけである。大したことは考えていなかった。ところでオクシデンタリズムというと、oxy - dental - ism っぽくないでしょうか。酸素で虫歯を防ごう!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?