美しい庭園を包む不愉快な沈黙

 以下は全く個人的な話に過ぎず、
 白紙を埋める記号の列以上の意味を持たない。

 仕事をリタイヤし田舎に大きな一軒家と美しい庭園を持った夫婦がいる。夫は東京の大きな商社で営業の仕事をしていた。日本の経済的黄金期を支えた人々の一人であった。

 夫の退職に伴い、夫婦は東京から夫の故郷に住まいを移した。農家だった古い実家を建て替え、そのすぐとなりにまとまった土地を買った。その土地に小さな菜園と、美しい庭園を作った。夫婦の生きがいは、今やその庭の手入れである。

 午前中、夫は定年退職はしたが、働きに出る。東京で培ったノウハウは地元の小さな企業で尊敬を集めるに十分だった。妻は朝から家事をすることもあれば、習い事に出かけることもある。午後は夫婦で菜園と庭の手入れをする。

 夫婦は庭に垣根を設けなかった。周囲の住人――ほどんどは人生の晩年を過ごす人々――は通りがかるたびに、菜園と庭園を褒め、とりとめもない、最近の出来事について立ち話をしてゆく。満たされた、豊かな生活である。

 ある年、菜園の南側にあったボロ屋に工務店の青年がやってきた。ボロ屋の所有者が変わり、最低限の改築を行い、貸しに出すらしい。工務店の青年は明るく爽やかで、人当たりが良かった。大家もまた若く快活な男で、大手の建設会社に努めていた。

 補修したとはいえ、ひどく粗末なボロ家にはなかなか借り手がつかなかった。いつの間にか、夫婦はその家のことを気にしなくなった。

 三年後、不動産屋に連れられて、入居者がやってきた。無愛想で、陰気で、年齢の割に幼い印象の青年に、夫婦はいくばくかの不安を覚えた。その入居者は自称新規就農者であり、努めのものでもないという。一人住まいの予定らしい。この土地の出身というわけでもないらしい。夫婦はその家と庭園の境に塀を作ることにした。彼くらいの年ならば、普通は結婚して、子供がいる家庭も少ない。夫婦の世代にとって見れば、陰気な独身者という立場は不穏に思えたのだった。近隣の工務店は滞りなく塀を仕上げた。あくまで、目線より少し高い程度の、ひかえめな塀にした。物々しいコンクリート塀ではなく、上品なクリーム色の樹脂の組垣である。

 さて、自称農家だという男ははじめは仕事にでかけていたようだった。だが次第に、家にいることが多くなった。彼のボロ屋の南側隣の家に住む老婆は、「一日中寝てばかりいる怠け者」だと証言した。その老婆は何代も前からその土地に住んでいる農家だった。信用は厚い。

 庭園のすぐとなりの道は小学生がよく通る通学路だった。そこで幼い子供を遊ばせている母親は多かった。だが、最近は見かけなくなった。あの陰気な入居者がどうも教育に良くないように思えて仕方がないのである。

 農村の美徳とは、休みなく働くことである。日の出から日の入りまで、休みは盆暮れ正月だけ、それ以外は毎日、80歳の老人でも畑をいじっているものだ。ところが例の男は、控えめに言っても勤勉だとは言えないようだった。

 夫婦が生きがいである庭の手入れをしているときも、あの家からはかすかな生活音が聞こえていた。ボロ家だからだろうか、カップをテーブルに置く音、パソコンのキーを叩く音すら聞こえる。当然ながら、夫婦の話し声や、剪定ばさみでバラの枝を整える音も向こうに聞こえるはずである。夫婦は小声で会話するようになった。作業するにしても、なんとも不愉快な沈黙がまとわりつくようになった。

 夏、夫婦の住まいから5キロほど離れた位置で殺人事件が起きた。小学生を殺害したとして、隣の街に住む男が逮捕された。TVのニュースでも不穏な報道が相次いだ。通り魔事件、子供が殺された事件、死傷者が多数出た交通事故。特に引きこもりの男に関する事件が二件あった。新聞でもTVでもその事件が目についた。

 町内会で警察を呼ぼうかという話になった。あの、不愉快な沈黙の原因となる男について、よくない噂は益々増えた。以前では庭の薔薇を褒めてくれていた隣人も、声高に、あの男の批判ばかりするようになった。裕福で満たされていた生活は、一気に暗転した。今日もあの男は一日中家に居た。昨日も居た。ここ数週間、ずっと引きこもっている。もしかしたら数ヶ月かもしれない。

 町内会の主導で、通学路が変わった。表向きは、細い道は車が通るときに危ないからという理由で。あのボロ家の南隣の老婆は防犯灯を買った。暗いうちは明かりを絶やさないようにした。さらに家の表側についないでいた犬を、ボロ家の方向に移した。番犬は絶えず吠え立てた。

 明るくすべてが順調だった町内に、不穏な薄闇が忍び寄った。

 それで、こんな町内で私はどうしているかと言うと、最大量まで増やしたトランキライザーと抗うつ薬を服用しながら、対人恐怖と鬱病からくる不安と絶望に震えながら、布団を被っている。安易に寝返りを打つこともできないし、ましてや台所に立ったり、トイレに行くことにも非常に気を使う。音が、聞こえるのだ。南側の、認知症気味で口さがない老婆の耳に、番犬の耳に、北側の菜園の夫婦の耳に、あるいは私の家の正面で、大声で噂話をする老人たちの耳に。

 天井裏を走るクマネズミの足音、押し入れの奥でアシダカグモがうごめく音に耳を澄ませる。冷蔵庫の冷媒がゴボゴボと鳴りながら、私の噂話をしている。犯罪者予備軍の、無職の、教育のない、危険人物、愚かで、怠け者で、それでいて何を仕出かすかわからない、不審者。

 このボロ家は雨漏りがする。しかし、土砂降りの日だけは、私は安心することができる。あらゆる音が、雨粒を叩くトタンの音に紛れてしまうからだ。

 これは小説でも何でもない。私は更にトランキライザーを足して、読みかけていたカミュの『シーシュポスの神話』を閉じ、ノートPCを開いて、雨音を聞きながら、これを書いている。

 雨の日だけは、私になりかわった噂話の中の私は、私の影たる私は、世間における真実の私は、何の力も持たず、屋根裏の隅に引き篭もっている。

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