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【Fラン大学卒業後、就活から逃げ専門学校へ編】辛い幼少期、感情なしぼっちFラン大学時代、1年間専門学校に入学。そして地獄の零細企業社会人へ(5)【ノンフィクションドキュメンタリー】

○前書き
起業を機にいままでの自分の人生を振り返ってみようと思って、経験してきた伝記的なものを作ろうと思いました。起業に至るまでの五年間奮闘した完全な自己満足のノンフィクションドキュメンタリーです。無職からの這い上がりの過程を誰かの希望になれば。

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◇登場人物
友人A:高校時代からの友人。運動も勉強も普通以上にこなせてコミュニケーション能力が高い。高校時代の親友。しかし本人に自覚はないがプライドが高く、能力が低い僕を見下す節がある。一緒に行動していてぐだると不機嫌な表情になる癖がある。

友人B:大学時代の友人。友人Aと一緒の学科で大学時代は終始共に友人Aと一緒に行動する。友達の中で唯一彼女持ち(彼女は美人)。コミュニケーション能力が高くリーダーシップ力もあり、後にFランを枠を超えて這い上がっていく野心家。コミュニケーション能力がない僕にいじりながらもよく接してくれた。

友人C:大学時代の友人。僕と同じ学科。僕が大学時代一番仲が良かった友人。まったりした性格で誰とでも対等に話してくれるので友人達から好かれていた印象。読書家。しかし、留年が決まると心が壊れていってしまう。

友人D:高校時代からの友人。僕と同じ学科。頭の回転が速く、よく機転が利く。僕によく厳しい事をいっていじってきたが、本人なりの優しさだと受け取っている。
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Fラン大学在学中は以前の小中高と比べて、積極的に勉強をするようになったと思います。それは大変な実験の講義の影響もあり、そもそも無気力な学生は理系の実験系の必修授業で無慈悲に足切りを食らったと思います。

僕はそもそも一人で行動することが多かったのであまり実感はなかったのですが、後々研究室に所属した後仲良くなった人が、友達たちが居なくなってしまった(辞めてしまった)。とさらっと言っていたので、知らないうちに学生の数は減っていたみたいです。

大学在学中、ようやく真面目になってきた僕は自発的にクリエイティブ系のソフトの勉強を始めました。教育に熱心な父親は僕に映像系ソフトが入ったAdobeプロダクションプレミアムCS4という高いパッケージを買ってくれました。

大学時は特にやりたいこともなく、スーパーの品出しのアルバイトも勉強を集中したいといいつつ辞めたため、本当に時間がありました。(本当はアニメ系のイラストを練習したかったが結局才能がなく挫折)

だけど、本当にまとめサイトを見るぐらいしかやることがなかったので、イラストをかきかったのもあり、Photoshop、illustrator、そして映像ソフトのaftereffectsを学んでいきました。

当時ニコニコ動画の全盛期(2007年から2012年頃ぐらい)で、初音ミクをはじめとする、ボーカロイドのプロデューサー(作曲者が初音ミクをプロデュースするという意味合いでPと名乗る文化があった)と、それにPが作曲した曲に対して、有志がMVを作る文化が根付きました。まさに個人のクリエイターの時代で、プロでない個人でもバンバン有名になっていく土台が出来ていきました。

↓大学在学時流行っていた「メルト」。この曲を皮切りに初音ミクの知名度が上がっていった。

ネットジャンキーで、ニコニコ動画も毎日見ていたので、それらの映像職人の影響もあり、映像系に関心が強くなっていったのがソフトを学び始めた理由です。

結果的にこの時学んだAdobeのソフト達はいまの事業にも生かせているので、暇な時間に学んでいてよかったと思っています。

そして、研究室も映像系のものがあり、卒業研究として映像作品を作っていきました。工学系の教授が多い中、映像系の研究室は学生を呼び込むためのおまけ感が強かったので、卒業研究の発表会に作品を流すのは異質でしたが、ぼっち卒業して(4年次で遅すぎますが)研究室時代は楽しかったです。

しかし、就活の時期になるとメインの就職はSE(システムエンジニア)、プログラマーになるのが普通という風潮が学科内であり、映像系の研究生もほぼ例外なくSEになっていきました。

僕もまわりに押されて、SEを目指すよう自分を説得しますが、どこか心の中にわだかまりがありました。

「ずっと映像系の勉強をしてきたし卒業研究として映像作品を作ってきた」
「なのに苦手なプログラミングで就職していいんだろうか」

心の中でずっと葛藤して時間が過ぎていきました。そして自分を言い聞かせ、SEになるために就活をはじめていくが、心ここにあらず。

そして不幸なことに、嫌みな兄と就活の時期が重なってしまいました。
兄は国立の院に学歴ロンダリングしていて、両親からの期待と信頼が高かったです。なので、どんなに嫌みを含んだ言い回しでも、兄の言う助言は絶対だ。というのが両親の認識でした。(実際アドバイスは馬鹿にするような含みがありましたが、アドバイスではありました。しかし兄を嫌っていたのであまり聞かず)

就活を通して順調に成長していく兄と比較して、両親は僕を心配しました。というのも、僕は兄と比べて就活の出だしが非常に遅かったからです。

自分を言い聞かせ、兄のアドバイスに従い、セミナーに行ってみたり、SEの企業説明会にいってみたりしましたが、またすぐに就活を止めてしまいました。

兄が面接を何件か突破し始め、内定獲得が見えたころ、父親が僕に痺れを切らして言いました。

「兄は就活してるけれど、おまえはいつになったらはじめるんだ?」

父親は基本穏やかな人なので、それに甘んじて怒られるまで自分の意見を先延ばしにしてきましたが、この言葉はずっと避けていたので内心ドキリとしました。そして、少し考えて思ったことをいいました。

「映像の勉強をもっとしたい。専門学校に入学させてほしい」
「ただ二年は長すぎるから、ここなら一年制で学べる」

父はだまって僕の意見を聞いていました。そして、そこに入学するとしても就職はどういう系統になるんだ。としきりに聞かれましたが、僕は映像系になることを説明し、なんとか父に一時的に承諾を得ることができました。しかし、疑い深い父は専門学校をあまりよく思っていなかったので、まだ完全に承諾するまでは時間がかかりました。(学費が高額だったので当然ですが)

ただ父曰く、この時僕が自発的に映像の勉強をしていたのを知っていたので、僕の決断は前向きに捉えてくれていたようです。

こうして僕がまた更に一年間、また高い学費を負担してもらい、映像の専門学校に入ることになります。この決断は人生ではじめて自分の中で決めた決断になりました。そしてFラン大学を卒業します。

この時の決断により、僕は映像系の道へと進むことになりますが、ただ大学時代就活から逃げたことにより、後々会社選びを軽視し、しくじってしまいます。

次回は怒涛の一年制の映像専門学校の話を書きます。

僕の自伝なのであまり深く掘り下げていませんでしたが、前回ちょいちょい登場した友人たちの卒業後を簡単に書きます。

〇友人A
人当たりが良く、成績、コミュニケーション能力に全く問題なかった友人Aだが、面接にことごとく落ちてしまう。理由はわからないが、色付きレンズに見えるメガネが原因じゃないかと僕の母が考察していた。

そして内定がないまま卒業、卒業後も就活を続けることに。友人Bから発破をかけられたりして心配されていた。(友人Bからは僕が友人Aの立場になるんじゃないかと思っていたと思う)

僕は順風満帆に見えていたけど、本人は悩んでいて初めての挫折だったんじゃないかと思う。その後、僕が仕事をクビになった頃、逆にたまたまハロワに来ていたホワイト企業を紹介されたAは無事にその企業に就職することができた。仕事の愚痴は多いが、公務員に近いらしく安泰だと思う。

〇友人B
同じ大学きっての成り上がりの成功者だと思う。本人は下のランク高校出身、そして同じFラン大学に入学。高校時代からの劣等感か、それをばねにして、成績優秀者として利息なしの奨学金の対象になる。

研究室の教授の紹介により、国立の院に学歴ロンダリングを果たす。
そして高学歴により、大手企業に入社し、高い能力をかわれ社内で頼りにされる。しかしそれが枷となりどんどんプレッシャーをかけられたらしく、鬱になってしまう。

僕自身友人Bも順風満帆に見えたけれど、友人Bも大きい挫折を経験したと思う。その後無事回復して、復職。現在は高校時代からの付き合いで、美人の奥さんと子供達に恵まれ幸せに暮らしている。

余談だけれど、友人Bの彼女で現奥さんのおかげで、僕は女性不信を離脱できたと思う。ちょくちょく彼女を含めて友人Bとは遊んでいたけど、僕を"普通"の人間として分け隔てなく接してくれたのが、離脱できたきっかけだと思います(幼い経験により女性は全員僕を蔑んでいると思い込んでいた)

友人Bには色んな経験をさせてもらったし、奥さんともにいつまでも幸せを願っています。

〇友人C
友人Cは四年次の研究室選びで一念発起し、やや難易度が高い研究室を選択してしまった。友人Cは同じ友達グループの友人からゲームの誘いが頻繁にあったらしく、それを断ち切れず成績が下がっているようだった。

僕が自発的に勉強をしているのに影響をうけたみたいで、友人グループとは違う研究室を選び、難易度が高い研究室を選んだのが経緯。しかし、その判断は裏目に出てしまう。

友人Cにとって研究室が合わなかったのか、課題が難しかったのか、ほかの研究生と差が開いてしまったらしく、教授からこのままだと留年すると忠告されたらしい。どんどん気を病んでいき、思えば卒業まじか、友人Cの行動は少しおかしくなっていたと思う。

結果的には一留したのち、医者から鬱の診断がくだり大学を中退。
その後、アルバイトの後正社員になれるスーパーの仕事をしていると聞いたのが最後。

最後に会ったのが六年前ほど。
表情は明るみがあったけど、友人Cも挫折を経験していた。学生時代から全然連絡が取れないやつだったけど、大学時代で一番仲がよかった友人。いまは元気でやってればうれしい。

〇友人D
友人Dは僕よりも成績がよかったと思うが、一留する。もしかしたらSEになりたくなかったので、別の就職先を探すべく就職留年をしたのかもしれない。

ただ、情報系の学科で、卒業生の知識がなさすぎると就職先の企業から苦情が入ったようで、急遽基本情報技術者試験のテストの文章問題だけ、必修で受けることになった。

そこであえて手を抜いたのかわからないが、テストをパスできず留年。一留の後、自衛隊に就職。そして自衛隊のキャリアから一般企業に転職して元気にやっている。

友人Dは卒業後、愛に目覚めたのか彼女を作って別れる過程をいくつか踏んでいて、順調なサラリーマンになっている。




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