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【辛い学生時代編】辛い幼少期、感情なしぼっちFラン大学時代、1年間専門学校に入学。そして地獄の零細企業社会人へ(1)【ノンフィクションドキュメンタリー】

○前書き
起業を機にいままでの自分の人生を振り返ってみようと思って、経験してきた伝記的なものを作ろうと思いました。起業に至るまでの五年間奮闘した完全な自己満足のノンフィクションドキュメンタリーです。無職からの這い上がりの過程を誰かの希望になれば。

最初に自分の幼少期を振り返ります。
僕の人生はいつも人並みにはいかず、能力は平均未満。
努力をしてやっと普通ぐらいになれる、そんな人間です。

小学生時代の成績は運動も勉強もできず、いつもクラスの成績は最下位。
そしてクラスには馴染めず、引っ込み思案な性格だったのでいつも一人で机で暇をもてあそぶ子供でした。

引っ込み思案な子供はすぐにいじめのターゲットに。
子供は良くも悪くも無邪気なので、普通という多数派に属さない子供をすぐに組織的にいじめのターゲットにします。

いじめる子供もわりと頭がいい子供もいて、頭がいい人間は先生の見えるところでは友好的に接し、先生が見ていないところでは、さりげなく心無い言葉を投げつけられました。

そして、違うクラスの一度も話したこともない女子グループにも、同様に結構辛い言葉を投げられます。(この事がきっかけで大学時代まで女性不信になる)

辛い言葉は主に見た目に関することで、僕は顔の輪郭が人一倍でかく、特に体が小さいころは、顔の面積に対して体の比率が小さいので醜かったこと。そしてちょっとした仕草なんかが変わっていたので、「気持ち悪い」、当時その略称が流行っていたので「きもっ」としきりに言われていました。

感性が豊かな時期に日常的に否定的な言葉を浴びせられたら、どんどん自分の存在価値を失い、僕の自己肯定感はもう小学校の時点で最底辺にまで落ちます。

そして、授業ではあまり先生の話を集中して聞くことができず、ぼーっとほかの事を考えることが多かったので、成績はもちろん悪かったです。

後々聞いた話ですが、この時のクラスの担任の先生が、僕の知らないうちに僕の母親を呼び出し、自閉症の傾向がある僕に対して相談をしていたそうです。すごく教育熱心な先生で、すごく厳しくもあり親身になってくれる先生でした。

結果的には、自閉傾向がある、ぐらいの話だったらしいのですが、その予想は当たり、(後々書きますが)成人後に医師による診断により発達障害の診断が下ることになります。

家の中のいやしはゲーム音楽

家の中でも完全に休まる時は少なかったと思います。
兄が情緒不安定で、暴力的な人だったから。

兄には怖い印象しかなく、いつも兄弟たちと共に兄の機嫌を伺う日々を過ごしていました。当時兄は学校でストレスを溜めていたらしく、家では情緒不安定で、いまのDVにあたることをされていたと思います。
暴力の兆候は、奇声を上げた後、突撃し強烈な蹴りをお見舞いされる。

兄からも小学校の同級生同様、心無い見た目を否定する言葉を浴びせられていました。兄から付けられたあだ名は”リアルのび太”子供ながらも悔しい気持ちに。

兄も同様厄介なのは、親の前では暴力を振るわない。そして暴力の正当化をしていたこと。(妹とのいざこざで、妹に代わって制裁をあたえるなど。理由はなんでもよかったと思うが)

ただ、兄の名誉のために言いますが、今ではだいぶ落ち着いていて、子供もいてかわいがっています。

普通の父親になっていて安心しているので、自分としては過去の事なので水に流していて気にしてはいません。(しかし、だからと言って、肩を組んで僕らは仲良し兄弟。という感じで打ち解けることはないと思いますが)

なのでいまだに兄弟の蟠りがあり、よく友人から、兄弟と仲良くしろよ。と軽口を叩かれますが、単純な問題ではないと思っています。

ただ仲が良い兄弟を見たり、良き理解者でありそうな人と会うと、こんな人が兄だったらもっと人生に救いがあったのかもしれない。と二十歳前後の時に羨む時もありました。



学校も兄弟関係も辛くてゲームに逃げますが、親が厳しくゲームは禁止に。
なので親が来る前にゲーム機を隠す、禁酒時代みたいな事をしていました。
(当時兄がゲーマーだったので、その影響でゲームに関心をもつ)

しかし、それでも見つかり怒られ唯一の救いが没収される。
でもゲームの音楽は聴くことは許されました。

ファイナルファンタジーをはじめとするゲームの曲は心の支えでした。
感情を揺さぶる平原の曲だったり、気持ちが上がる戦闘曲だったり。

サントラで聴く、直接心に響く音楽達はメンタルの支えになり、FFの
作曲者である植松伸夫さん、テイルズシリーズの桜庭統さん、チョコボの不思議なダンジョンの浜渦正志さんを自分を救ってくれる神と崇めていました。

======(閑話)
後々書きますが、僕の事業の一つに音声作品の制作をしています。
youtubeに無料で配信をしているのですが、メインは18~24歳を中心とした若年層のリスナーがメインです。

彼らから感想として、喜びのコメントを貰えるので、もしかしたら当時の僕が心の支えとしてゲーム音楽を聴いたように、若いリスナーたちも僕のコンテンツを心の支えにしてくれているのかもしれません。そう思うと、当時神とあがめた人たちに恩返しをしているようでうれしいです。
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両親については特に問題はなかったと思います。
むしろ父親に関しては、スペックが高くて知識が豊富で高所得者、そして子供の教育に熱心、コミュニケーション能力が高くて頭の回転が速いなど、普通の大人と比べると能力が高い人でした。(やや過干渉気味)

母親は僕が引っ込み思案なことを心配して、過干渉気味な教育方針でした。過干渉なので、僕の考える余地や選択を母が率先していました。なので僕は成人後も選択を親に依存するという癖が残った気がします。今は自分で考える考え方に変えました。

よく、ネットのまとめサイトで、"子供がニートになる親の特徴"といった記事が定期的にあがっていましたが。(大学時代はまとめサイトのヘビーユーザーだった)

それは、父親が教育に無関心、母親が過干渉な教育。といった条件でした。子供時代に親にどう接してもらったか、というのは本当に重要だと思います。

父親がもし教育に無関心だった場合、僕は学生時代からニートをしていて、一生這い上がる機会を他人や国任せにしてずっとネットの世界に入り浸っていたのかもしれません。

小学生時代はこんな感じの過ごし方でした。
友達はよく遊ぶ一人仲がいい子がいて、その子と遊ぶ時も救いで楽しかったです。ただこの子は中学校時代に悪い連中とつるむ様になり疎遠に。(家の近くに中学はなく、遠い治安が悪い地域の中学なので、ヤンキーが一クラス分ほどいた)

中学生時代は変わらず引っ込み思案だったけれども、いじめられるまでにはいきませんでした。小学校時代の友人は悪い連中とつるんでいたので、友達は0。いじめられずとも存在がない"無"だったと思います。

正確には友達っぽい人たちはいたのですが、性格の悪い陰キャ集団で、からかわれたり、貶められたりされてたので友達にカウントはせず。(いまでも付き合いはないので)

中学生時代の思い出は特になく、ヤンキーが多くて先生の対応が追い付かず、常に非常ベルが鳴らされたり、トイレにタバコが捨てられたり、壁紙が親されたり、世紀末な学校の印象が強かったです。

こんなところで、次は高校時代、Fラン大学時代について語ります。
見る人がいるかわかりませんが(;'∀')

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