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一日なりきりルーレット

こんにちは。

久しぶりにnoteを書きます。

今日はある出来事をきっかけに自分と向き合ってみて考えたこと。そしてそこから見えた一つの『やってみよう』について記します。

自分に甘いわたし

今日、部活の練習にいくと同期の部員に叱られた。わたしは怪我予防のために毎朝スタッフの方にテーピングを巻いてもらう。練習するグランドは部員が自分たちで準備するのだが人数が多いため準備をする人が週で変わることとなっている。今週はわたしが準備に当たっている週だった。しかし、わたしはその準備担当の集合時間に集まり、ほかの人たちが準備をしている時にテーピングを巻いてもらっていた。そのことに関して、指摘されたのである。もっともだった。

言われたと同時に、なぜそれが自分で直せないのかをずっと考えていた。

わたしはよく視野が狭いと言われる。
しかし、自分では薄々感じていた。狭いのではなく感度が低いということに。

これまでを振り返ってみると、完全に見えていないことは実は少なく、なにか感じていたり気づいていたりすることの方が多い。ということに気付いた。だが、そこから行動に移すというところまでの感度が低いのである。
率先して何かを行ったり、誰かを助けたり、何かを感じて表現したり、どれに対しても感度というところに欠けており、周りの状況に対応する行動力は極めて弱い。また、結果的にそれが「見えていなかった」という視野の狭さとして”しょうがない”ことにしていることにも気がついた。
この周囲への感度の低さを含めた自分への甘さは自分自身が生きてきた環境にあると感じた。
わたしは、これまでの人生を振り返った時に、これほどまでに幸せな人生があるものなのだろうか。と多々思う。今を含めて、出会ってきた人々や過ごす環境は控えめに言っても良すぎるものだった。

ひとりっ子として生まれたわたしは自由奔放に、やりたいことはなんでも尊重してくれる母であり、いろいろな経験をしてきた。また、基本的に緩く、(いい意味で)テキトーな部分があり、いつも同じ目線で対話してくれる親であった。
母子家庭であり、親戚の中でも一番に生まれたわたしは祖父母・叔父叔母含め本当に多くの人に可愛がってもらった。いつも誰かが近くで温かく見守ってくれる。そんな幼少期を過ごした。
高校生まで実家で暮らし、家族の雰囲気は変わらず自由で温かい時間が流れていた。
小中高でも自分を受け入れてくれる人々と出会い、人との出会いにもとても恵まれていた。

どうしてこんなにも幸せなのかと思ってしまうほど、これまでの人生は愛に溢れ温かいものであった。

しかし、だからこそ、自分自身を律するという力が小さかった。

ルールや人から言われたことはきちんと正す。
しかし、自分で自分を正すという点において、あまりにも弱い。
これまで、自由にやってきた自分を受け入れてくれる人々がいて、自由にやって楽しめる環境があったから。
これは、自分へのしあわせの代償だと思う。

しかし。「わたしが憧れる先輩や大好きな友人はどうか?」というと、皆自分を律することができる人ばかりなのである。
人は、自分に持っていないものを持っている人に惹かれていくと言うが、まさにそのものであり、
"自分を律する"
というわたしには欠けている力を持つ人ばかりがわたしの周りにいることを知った。

そこで。
わたしも自分を律せられる人になる為にはどうしたらいいのか。

きっと、ただ単に自分に厳しくすることは自分にとってストレスになると感じた。
自分の行動ひとつひとつを否定することに繋がり、しんどくなってしまう。
じゃあ自分が自分を律するしかない辛い環境に行くのはどうか。と考えた。しかし、それは今の状況において現実的ではなく、効果があるのかもよくわからなかった。

色々と考えた結果、
「一日なりきりルーレット」を思いついた。
要は自分が憧れている人や好きだと思う人に一日なりきる。マインドをその人にし、その人がやりそうな行動やコミュニケーション、気遣いを行う。
一番楽しそうで、ストレスなく、自分のなりたい自分に近づける。

これを今日からやっていきたいと思う。

以上、本日のnoteをおわります!

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