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こどもホスピス ~「0」と「1」が重なり合う場所~

「親が亡くなると『過去』を失い、配偶者が亡くなると『現在』を失い、子供を失うと『希望』を奪われる」/ E.A.グロルマン『愛する人を亡くした時』

日々の生活で、私たちはたくさんの別れを経験します。

その中でも「死別」は私たちに深い悲しみを与えるものです。

はじめのグロルマンの言葉は喪失したものを対象に、その大きさを顕著に語ってくれてます。

がん患者が最終ステージ(ターミナル期)に入り、医療の効果が見られなくなると病院側から自宅療養やホスピスへの移転を推奨されます。

私の父も8年にも及ぶ抗癌剤治療と幾度もの大きな手術を経て、ホスピスへ行きました。

そこでは、緩和治療という目的でソーシャルワーカーと患者が生活をしています。

無機質な壁とアルコールの匂いのする病院とは違い、柔らかな光に包まれたホスピスの室内は殺伐とした闘病生活とは違う、日々の穏やかな生活を思いださせてくれます。

そんな父のいる大部屋の方隅で、穏やかな昼下がりの光の中をベッドの上で絵本を読んでいた少女がいました。

その場にいた両親は少女に優しく寄り添いながら、その絵本の物語の行く末を微笑みながら見守っていました。

その光景が10年以上経った今でも、僕の脳裏から離れずことがなく、少女の存在を「0」と「1」で重ね合わせながら今もなおリフレインさせています。

当時はまだ、緩和ケアというものもそんなに浸透しておらず、ましてや北海道には「こどもホスピス」の存在など、全くなかった時でした。

死別と向き合う為のグリーフケア

大切な人との死別は、大きな喪失を産みます。

この場合、自分の父を病気で失うという事はある意味で自然摂理という納得の範疇になり得ますが、自分の子供に先立たれる親はその理不尽さと不条理さから、長い期間を苦しむことになります。

中でも、親たちの突然訪れた自身の子供へのガン告知の衝撃と、その克服に向けた闘いは凄まじく、心身共に疲弊していきその人生が磨耗されていきます。

小児ガンと向き合う親がどのように子供の病気と向き合い、子供の死後をどの様に受け入れていくのか、その体験者との膨大なインタビューを元にプロセスを体系化した書物がありました。

親が我が子の喪失に適応し「落ち込みから踏み出す」為の5つの事がポイントが紹介されています。

①気持ちを切り替える事
②子供の闘病体験の良い点を認める事
③子供は自分がいなくても大丈夫だと思える事
④状況をコントロールできる事
⑤納得のいくストーリーを作りあげていく事

更に、子供の病気の発覚から「闘病」⇨「死別」⇨「絶望」⇨「踏み出しの一歩」に至るケースが、様々な親御さんの体験から体型化されることが垣間見えます。

『感情の棚上げ』から『闘病インフラ整備』

突然、我が子が重度のガンである告知を受けた際に、親は非常に大きなショックを受けます。

お医者さんからの宣告が他人事のように聞こえ、まるで映画やドラマを見ているかの感覚を覚え、全く現実味を帯びなかったと語る方が多いです。

ここに、告知から親が子供のガンを受け入れるまでに数日のタイムラグが生じます。

その間「どうして自分の子が?」と、発病の原因を探しあぐね「妊娠中に何かよくない原因があったのか?」「良くない食べ物を与えたなではないか?」等と原因を自分自身への帰そうで繰り返し、絶対に自分の子供を死なせてなるものかと「病気克服の決意」へと繋がっていきます。

これが【感情の棚上げ】というフェーズです。

様々な感情を抱きながらも、眼前の子供の命を救うことに全力を傾け、看病に専念する為に『看護体制の整備』と『知識の獲得』の二つで【闘病インフラ整備】を行うのです。

『看護体制の整備』では、仕事や他の子供の世話などを調整し、毎日病院へ通える体制をつくる、退職あるいは休職のどちらかを決断したり、病院の近くに引っ越しをする親御さんもいたりします。

『知識の獲得』では病気についてだけではなく、本当にこの病院で良いのか、あるいは医療者から提示された治療法でいいのか等を本やインターネットを通じて可能な限り情報を収集します。

しかし、知識の獲得は同時に子供の病状の厳しさを親に改めて認識させる要因にもなります。

その中で、親は子供を不安にさせない為に自らの「精神状態の安定化」を計ります。

突然の検査、入院、治療は子供に大きな不安を与えるだけでなく、親の不安は子供に伝わってしまう為、自分自身の精神状態を安定させる必要があるのです。

その為、3つの行動を取る傾向があります。

1、子供の病気について必要最低限の他者にしか教えない
2、それまでの維持してきた人間関係に距離を置き、他者との接触を減らす
3、平穏な日常生活を送る他者を極力自分の視界に入れないようにする

こうして、『社会的関係の極小化』を図るのです。

『一体化』そして『ともに闘う』

子供の生命の危機を感じながらも、濃密な時間を共有し一緒になって病気と戦っていくことにより、親が子供との一体感を非常に強く認識していきます。【一体化

「子供を殺してなるものか」と病気克服の決意を固め、親が子供の看病を積極的に行い、子供と一緒になって主体的に病気と闘っていく覚悟を決めます。

ここで「ともに闘う」の「ともに」というのは、「自分と子供の二人」という意味であり、「自分たち夫婦と子供」あるいは、「家族みんなで」という意味あいではありません。

これは母親、父親のどちらも発病の責任を配偶者におしつけるのではなく、その責任を自分自身にあると考え、自分が子供と二人で闘っていく責任があると認識していると考えられます。

また、母親が子供の発病の原因を「自分が子供に与える食事が良くなかった」「妊娠中に何か良くない事があった」と考える一方、父親は「自分自身が親不孝をしているので、その巡り合わせだ」等と、抽象的な原因探求をする傾向が見られます。

父親も子供の発病の責任が自分にあると感じていたが、母親のように具体的な原因を思い浮かべることは少なかったのです。

度重なる放射線治療や抗癌剤治療にも関わらず、病気が再発してしまう場合、今までの治療は意味がなかったのだと、先の治療に対する期待感も打ち砕かれ、親は「絶望感」と「制御不能感」を経験します。

その怒りの矛先は医療者へと向けられる傾向にあり、罵詈雑言を浴びせるケースも見られますが、その一方で絶望的な状況にも関わらず辛い治療に耐え、頑張っている子供の姿を目の当たりにし、「そんな事を考えてはいけない」「必ず希望はある」と【病気克服の決意】を新たにします。

子供の容体が「ターミナル期」に入ると、親は子供の死が現実味を帯びてくる状況に向き合いながら、日々、絶望と希望が交錯する中で翻弄されていきます【絶望と希望の交錯

この時期は精神的負荷が激しく、闘病患者は驚く程に元気な姿を見せる日もあり、本当はガンは完治したのではないかと希望を抱かせたと思うと、翌日にはベッドから起き上がれない程に苦しんだりし、我々はまた絶望を目の当たりしたりします。

そして、本格的に医学的に手の施しようがなくなると医者から余命宣告を受けるのです。

その際に医療者から、今後は子供がどのようになっていくかを赤裸々に語られ、親は不安と恐怖と共に、「見放された」様な絶望感と孤独感を覚えます。

しかし、子供の容体がどれ程に悪化しても最後まで希望を捨てることはなく、親は「希望の維持」を継続します。

「この子は運が強いから」「奇跡は起こる」など、最後まで希望を捨てることはありません。

医療者から説明される病状を理解し、闘病の先に子供の死があるかもしれない事を漠然と理解はするも、子供が亡くなる「その時」を明確にイメージすることは無く、子供の死を具体的に覚悟することはありません。

ターミナル期に入り、子供の容体が非常に悪くなってくると、母親の中には「希望を維持」しながらも、心のどこかで「これ以上、子供を苦しめたくない」と気持ちを抱く人もいます。

しかし、一部の父親は「希望を維持」し続けるだけでなく、子供以上に自分が主体となって闘う気持ちが強くなり、どれほど子供の病状が悪化しようとも決して諦めることをしないケースがあります。

子供が体力的に非常に弱っていても、助かる可能性が1%でもあるならば、副作用が大きくても治療に効果があると思われる強い抗癌剤を投与し続けることを望む父親もいます。

子供の死による『感情の噴出』

様々な放射線治療と抗癌剤治療のかいもなく子供を失った親は、はじめに「棚上げ」にしていた感情が一気に噴き出してきます【感情の噴出】

「無力感」「謝罪の気持ち」「自責の念」「怒り」「後悔」「恐怖」など様々に内包され複雑に絡み合った感情が親を圧倒するのです。

病気の発生を防ぐ事ができなかった 
病気に苦しみ、過酷な治療に耐える子供に何もしてやれなかった 
子供の苦しみや恐怖を取り除いてやれなかった 
最も大切な命を守ってやる事ができなかった

この『無力感』とともに、自分が「病気にしてしまった」「死なせてしまった」にも関わらず、自身が生き残っているという『罪悪感』が親を深く覆い包みます。

子供と「一体化」をし「ともに闘い」、「絆」を強めて懸命に闘病した結果、「死」によって愛する我が子から突然に引き裂かれるのです。

その際、親は他者からの安易な励ましによりかえって傷つけられることがある事から、「悲しみを黙し」様々な感情を自分の内に閉じ込めようとします。

親は子供の死の現実を「受け入れられず」、「切望と探索」を繰り返しますが、日常生活では子供の不在を否が応にも突きつけられる事になります。

『切望と探索』

子供の死を現実のものとして受け入れられない親は、子供がまだどこかにいるんじゃないかと現実世界の中に探し求めます。

同世代の子供を見かけると、自分の子供ではないかと後を追いかけたり、子供が入院していた病院へ探しに行ったり、存在しない子供の探索をはじめます。

しかし、生前に子供が座っていた椅子や使っていた食器、着ていた洋服に遊んでいたオモチャ、家の中にあるあらゆる子供の痕跡が親に子供の不在を突きつけてくるのです。

また、亡くなったことを知らずに送られてくるダイレクトメールやチラシ、郵送物など他者からによる「不在の意識化」が行われるケースもあります。

子供の肌の温もりや、腕に抱いた時の重さ、自分の感覚には子供が残っているのに、実在として感じることのできない現実が重くのし掛かり、深い悲哀へと叩き落とします。

こうした【現実の直視】を何度も経験しながら親は徐々に子供の「死」の事実を認めていきますが、それは決して「納得」するという事ではありません【諦念】

現実世界から手放しポジショニングする

子供が亡くなってから1〜2年が経過すると、親は自分の子供を「天国」などの死後世界、または自分のそばやお腹の中、お墓などの自身が納得いく場所に定位する様になります【子供のポジショニング

こうして子供を決まった場所にポジショニングする事により、子供はいつでもアクセス可能な存在となるのです。

【切望と探索】の期間、子供の姿は親の自責の念により闘病に耐えていたり、亡くなった場面、親を求め淋しがっている姿などで現れますが、自分の納得のいく場所にポジショニングした後では、子供は元気な姿で現れる様になります。

この様な段階を得て子供の死を受け入れた親は、現実世界から手放した子供との新たな絆を結び直そうとするフェーズに移ります。【内なる実在として新たに生かす、ともに生きる】

具体的には「子供を想う」「子供を記す」「メッセージを受け取る」「子供を語る」などして、子供を実在化し新たに生かすのです。

この頃には子供は親にとって自分を励まし支え導き、時に叱咤激励をする存在とし認識する存在の様になります【子供の理想化】【神格化

「元気な子供の姿」を思い浮かべれる様になると、親の心境は大きく前進し「愛しているからこそ悲しい」「やれる事はやったんだ」と自分自身を肯定する気持ちを抱ける様になってきます【悲しみのリフレーシング

しかしながら、親は時間の経過とともに悲しみや辛さなどの感情が希薄になっていく事を、子供に対する自分の愛情が小さくなることと紐付け、危機感や罪悪感を強く覚える様にもなるのです。

「内なる実在として新たに生かす」事により、新たな関係で子供とともに生き始めるも、子供の誕生日や命日、卒業や入学、あるいは成人式といった節目の時期に、日常生活の中に子供の死の現実を改めて突きつけられたりします。

そうした事が引き金となり、突如悲しみに襲われ、子供を亡くした当初の【切望と探索】に引き戻されるのです。

『ともに生きる』

親は子供の死を自分の人生の一部として組み入れていく様になり、死の事実を認め、現実世界に子供を探さなくなった後、悲しみを含めた全ての感情を引き受けながら、子供を【内なる実在として新たに生かそう】とします。

「子供のことを想う事によって自分自身の中」へ、または「子供を語る事によって社会の中」に子供を生かそうとするのです【悲しみの社会化

この様に【ともに生きる】実感を得て、親は子供との新たな絆を結び直していき、親は一生を通じて子供の死の意味を問い続け、その答えを子供のメッセージとして受け取りながら、人間的に成熟した新たな自己を確立していく様になります。

前に踏み出すプロセスの影響として、自分を理解し受け止めてくれる人と出会うこと、そこで「自分の体験を物語る」事は重要なファクターとなります。

親は自分自身の内に閉じ込めていた悲しみや様々な感情に対処仕切れなくなり、悲しみの対処法を模索し始めた時に、自分を理解してくれる「特別な他者」を求め、そうした人に出会う事によりそれまで黙してきた感情を表出し、体験を語る事ができる様になるのです。

自分の子供を亡くしてしまった親は、自身の悲しみを誰かに話そうとしても、相手の対応によって返って傷つく経験をしており、この世でこれ程つらく苦しい経験をした者は自分しかおらず、この気持ちを誰にも理解されないと感じています。

しかしながら、基本的に親(特に母親)は子供のことを話したい強い欲求があり、「娘のことをもっと話したい、知って欲しい」「子供のことを聞くのは悪いと思われるよりも、聞いて覚えていて欲しい」と語っているのが印象的でした。

こどもホスピスの存在

子供を小児ガンで亡くした親達が集い、その時の辛かった経験や悲しかった事、子供とともに過ごした楽しかった思い出や体験を語る場は、近年は増えてきています。

中でも、「こどもホスピス」が日本各地で誕生し、それを支えるソーシャルワーカーやボランティアの存在、子を病気で亡くした家族たちが協力する事によりその輪は確実に広がりつつあるのです。

難病や重い障害を持つ子供は全国に約20万人いるといわれます。

その中で生命を脅かされる病気や重度の障がいがある子供は、約2万人です。

ヨーロッパ諸国に比べると、日本では小児ガンの子供たちの緩和ケアのサービスはまだまだ浸透しておらず課題も多いのが現状です。

しかしながら、我々一人一人がその認知を広げることで環境が整い、一人でも多くの小児ガンの子供たちが「より良く生き」、心健やかに過ごせることが出来るのです。

今から10年前に、私の父が最後を迎えたホスピスで絵本を読んでいた少女。

あれから、あの子の人生がより良いものであった事を今も願い、僕の中で少女の命が素粒子宇宙の様に「0」と「1」で重なりあい、今も尚、存在し続けています。


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