生きたいとか死ぬとか生きてるとか

途中から文体が変わります、また話の順番も読みやすいものではないのでご了承ください。
そして人が生きるって事です。
人の人生を覗き込む覚悟を持ってご覧ください。

「〇〇くんっていつも笑顔だよね」


何気ない一言で、人生は変わる。
誰かの、誰でも、皆の、周りの全ての、この世に生きる全ての人に関わる体験だろう。言葉と生き方は密接である。
これは創作ではない。全て、私の話。

神奈川県産まれ、東京育ち。
とても恵まれてそうなこのプロフィールの影にある多くの事象。
人生とは、一瞬一瞬の積み重ねである。
シナリオは自分で書き、演出も表現を己が行う。
人生とは、自らが作り出した物語なのだろう。

私は幼い頃から父親がいない。
私の幼い頃に両親が離婚し、それからは母親、祖母、祖父と暮らしてきた。

私が最後に父親について覚えているのは、離婚後、父親の家に遊びに行ったという事実、そして両親の喧嘩の光景だ。

両親の喧嘩というのは、もう10余年見ていない、当たり前だろう。
でも心に残した爪痕には今でも触れられる。
はっきり景色として覚えてはいないが、心が締め付けられ、今にも逃げ出したくなるような幼い私にとって悲惨な光景であったという事実だけが存在している。
まるで目の前で人が死ぬような、目の前で戦争が繰り広げられているような……両親の喧嘩はそんな気持ちに陥っていた。
父親、否ここでは嫌悪とでも表現してしまおうか。
実際、嫌悪は母親に多くの暴言を浴びせ、暴力を浴びせていたのは後からきいた。
きいたと言うのも、大人になってから母親から言われた訳だが、きっと私は知らなかったわけではない、記憶の奥底に封印していたのだろう。見たくない、触れたくない、嫌だ、嫌だ、嫌だ、息ができない……そんな記憶をメモリーから抹消する能力を人間は持ち合わせている。

離婚から暫くし、小学生になった私に待ち受けていた、さらなる悲劇。
母親の自殺未遂。
この出来事は、私の人生において大きな意味を残すものとなる。

OD、飛び降り、失踪
私が小学校低学年、中学年、高学年と階段をのぼっている時に、母親は病気を抱えていた。

朝起きたら、自宅のトイレの前で倒れている母親を私は目の前で目撃した。
これが自殺未遂の一回目だったと記憶している。人生で身内が初めて救急車で運ばれるのをみた私はどうしようもない不安に襲われた。「このまま死んじゃったらどうしよう」

それからは母親が隔離病棟に入院し、母親と会えない日々。
小学校低学年の私にはあまりにも辛い体験だっただろう。
でも、その時期を生きていると不思議にも、そこまで辛く感じなかった。いや、感じることを拒んでいたのだろう。
不思議と人間というのは限界を隠す性質にある。
僕は大丈夫、僕はしんどいこともあるけど大丈夫と隠し続けて小学生をやっていた。笑顔であった。

母親の自殺未遂も一回ではなく、東京に引っ越したあとまで続き、計10回ほどだったと思う。
目の前で飛び降りようとしている母親、薬で倒れ、救急車で運ばれる母親。
全て、全て私の目にうつった事実であった。

本当はそんな時もあったよ程度に話したかった。
なによりもこの事は強く書きたくない。
でも私の人生の瞬間として、残すべきだと私はとらえた。


そして私は東京に引っ越す。
それは小学4年生の春であった。
いつも優しくて、いつも笑顔で、今の体型からは考えられない、ぽっちゃりの〇〇くんであった私は、冒頭の言葉である「〇〇くんっていつも笑顔だよね」と言われる事になる。

東京に引っ越してきて、環境に適応できなかった私は、1ヶ月程度小学校を保健室から登校し始めた。
いつも通り、1時間目を保健室で過ごした私が2時間目前に教室に行くとクラスメイトがやけに話しかけてきた。

きっと彼らは担任の先生に私を優しく迎えるようにでも言われたのだろう。
不自然だろ。当たり前に不自然だろ。

そのなんとも言えない、優しさ
もはや優しさなのかもわからない君たちのいつもより多く、激しい挨拶と、元気?って質問。
先生の言う事を素直に実行できて、本心で心配してくれてる良い子なんだね。
でもその言葉、心って刃物なんだ。
そんな言葉を胸にそっとしまい、「おはよう」と私は答えた。いつもの笑顔で。

それから時は過ぎ環境にも馴染み、学校に通えていたある日、私を突き刺すその言葉。

「〇〇くんっていつも笑顔だよね」

そうなんだ、そうだったんだ。知らなかった。
そこで初めて自分がいつも笑顔であるときがついたんだ。

いつも優しくて、いつも笑顔で、僕楽しそうって思われてたんだって気がついたんだ。

傷だらけで、傷なんか見せるはずないよ当たり前に。だから笑顔だったんだよ。
今の僕なら君のことがよくわかる。
笑顔の理由だってとてもよく。

私は、小学生の時に、自分だけが自分の傷を知ってると知った。

そして時が過ぎ中学生。

中学校に2年半通わなかった私はまた新たな価値観を手にする。

通わなくなったきっかけは中2の時の担任の言葉だった。
中1の時点で学校の雰囲気が苦手で、足を運べなくなっていた私は中2から学校へ復帰しようと決めていた。

最初の授業のない1週間は頑張って登校したものの、次の月曜日に体を崩し、休んでしまった。

でも学校へ通ってなかった人が急に毎日行きだしたら、そりゃ体も壊すだろう。
すると月曜日の夕方、担任から電話で「お前は勉強から逃げている」……

そんな戯言wwwなんて今になって言えるけどさ、その時は僕の努力とか生き様とか全部壊された気になったよね。
ふふ、死ねよ。

それから学校へ行かなかったんだけどさ、かわりにフリースクール的なとこに通ってさ、いっぱい面白い人がいた。
そこで傷ついた人と、傷ついた人が接して優しくなれた。

そして高校、現在は、自分と病気とのたたかいです。

ODで入院したことも、自傷行為が学校にバレた事も、自殺を失敗したことも。
今の僕です。

笑顔の代償です

いつも笑ってるなんて、いいことなんかじゃない。
助けてなんて言えなかった。
笑顔の代償です。

今の私と関わってくれてる人に向けて書いてみました。
そして私も見直すために。

最後に言いたいのはこれは私の人生のほんの一部ということ。
もっと多くの出来事がありました。ここでは書かなかったけど良いことだっていっぱい。
いっぱい端折りました。いっぱい減らしました。少しは読みやすくする努力して。いつか全てをかけたらいいなと思いますが。

これは不幸自慢なのかもしれません。
そうだと思う人がいても私はいいと思います。
そして私を嫌いな人がいてもいいと思います。

でもこれだけは伝えたいんです。
苦しい時は苦しいと伝えてください。
嫌なら嫌と、しんどいならしんどいと。

あなたは無限じゃない。
器はいつか満杯になり、水は溢れるという事を。

優しくなれるよう、心地よく生きられるよう、笑顔でいられるよう祈っています。

ずっと笑顔なんかじゃなくていいんだよ。

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