元々全然平和なんかじゃなかった

ずっと何年も好きだったアーティストの方々とお話しできる機会をここ最近立て続けに持てている。
でもお話できた理由、それは突き詰めればその方も私も今日まで生きていたからだということに尽きる。

コロナ禍になってから、好きな方々が何人も自死で亡くなった。

死。未来に関する全ての可能性がゼロになるということ。
中にはVRoidを始められた方もいた。バーチャルでかリアルでか、いつかお会いできていたかもしれない可能性に何度も思いを馳せ続けている。

亡くなった本当の理由はきっと誰も知らない。亡くなるその最後の瞬間、孤独の中で何を思っていたのだろう。みな美しく、そして美しいものを生む人達だった。

自死も他殺も、人が亡くなることが悲しい。その瞬間助けを求めるより殺すことを選び、人が人を殺めているという点で同じだ。

苦しむ人達が耐えに耐え、そして耐えかねて最終的に自分の口を塞いだままいなくなる状態の名前が「平和」な訳がない
最初からずっと平和じゃなかったんだよ。急に今平和じゃなくなった訳じゃなくて。

学生時代、「一人暮らししている家のドアを知らない人にガチャガチャされた」という話を雑談交じりに同級生にしたら「怖いからそんな話しないで」と言われたことがある。
怖い思いをした人やその話題を排除すれば、世の中にある加害も被害も全て消えてなくなるとでも?
と今なら言えるけど、当時は曖昧に笑うことしかできなかった。

90年代社会やメディアが新興宗教を面白おかしく扱った結果数々の事件が起こった反動でなのかタブー視が加速し、その結果表面的な社会は新興宗教を存在しないかのように扱うようになった。
新興宗教によって苦しんでいる人のことも存在しないかのように扱われている。

いつか一人で死の淵に立った時、果たして私は「助けを求めれば社会は私に手を差し伸べてくれるはず」と信じられるだろうか。

あなたが助けを求めるに値する世界にするために私が死ぬまでにできることが、あといくつあるだろうか。

生きていることを透明にしてしまわないで

若者の投票率が倍になっても高齢者票に敵わんという現実の中で語れる希望って何か一つでもある!?とか毎日本気で思うけど、何回壊されても根気強くオリジナルの希望を日々の生活の中で手作りし続けたい。死ぬまでは