「推し活」をやめて人間関係をはじめよう


元々女性アイドルやメイドカフェのオタクだった私は「ファンの私とアイドルの彼女の誠実な関係の築き方」を考えるタイミングがこれまでに何度もあった。
恋愛スキャンダルをきっかけに引退する女性アイドルを見るたび、そうじゃなくても実力があるのに20代でステージから降りることを選ぶ人が多いこと、アイドルブームに乗っかってアイドルの運営を始めた劣悪な芸能事務所からの待遇に苦しむアイドルの話を聞くたび、握手会商法批判が出るたび、秋元康の酷い作詞内容の新曲がでるたびetcetc上げれば枚挙にいとまがない。

ただそうやって年々増して行く戸惑いとは裏腹に、「推し」という言葉は予想以上に世間にも伝播して今や界隈を離れて一般化し、「推し活すると生活にハリが出てイイ!」と肯定的に語られるような文脈の言葉になった。

一方でYouTuberやインスタ、Twitterのインフルエンサーの台頭によって、まるで生きている人間やその人生をコンテンツとして消費できるかのようなそんな感覚が、そういう雰囲気がインターネットを覆いつくして

でも今改めて感じているのは、生きている人間の命や人生は、他人が消費できるような"コンテンツ"ではやっぱり根本的にないということ。

ジャニーズの記者会見後思ったのは、「被害者の救済を望む姿勢でいることがファンの人達にとっての最善だろうな(そうでなければあなたの好きな人が被害者だった場合、被害を訴えることを一層躊躇させてしまうだろうから)」ということだった。
でもTwitterはバイアスのかかっているSNSであるとはいえ、全くそういう空気ではなかったように感じた。被害を訴えている人達を責める声が圧倒的に大きいように見えた。
もし、自分の推しが被害者だったとして、ファンの人達が「事務所ではやく被害を訴えている人の方を責める」空気だと感じたらあなたの推しはどう思うかとかは、考えないだろうか??「もしも被害があったのなら被害を訴えてもいいし、そのために今すぐ事務所をやめてもいい、それでも私はあなたを応援する」という表明を差し置いてでも、元スポンサーへの不買や被害者側への不信感を今ここで表明しなければいけない理由はなんだ??

と考えたところでやっと私は、「被害者を責めるファンの人達は、身近な友人や家族を愛するのと同じようにアイドルを愛している訳ではないんだ」ということに気づいたのだった。

キムタクのインスタの投稿削除のニュースも印象的だった。

もう絶対的な「格好良さ」などない。
あるとすれば、己の間違いに気づく度に素直に謝り正していけることや、誠実で居続けるために行動を重ね続けるようなことだけ。

80年代ぐらいまでなら、完璧な夢を愛するようにアイドルを愛してもよかったのかもしれない。
でも全部が本人にまで届いてしまうこの時代に同じことを続けるのは無理がある。
好きな人を人間でなく神様にしてしまうのはやめよう。

私も何度か立った人生の淵で、何度も芸術や音楽や女性アイドルやミュージシャンにもメイドさんにも救われてきた。
だからこそ私も素晴らしい作品や瞬間を紡ぐ人達を神様にしてしまいたくない。

神様じゃなくて人間を愛するのは面倒くさい。だって神様は何をしても私を嫌いにならないけど、人間は簡単に私を嫌う。そもそも嫌われる以前に私に興味もなければ私の名前さえ知らないような、しかも絶対的に正しい訳ではない清濁併せ持つ存在を好きになるっていうことだ。神様ではない、遠い他人を好きになるということは。

だからこそ私は今まで他人にまでそれを強要することはできないと思っていた。現実の人間関係に疲れた人がハマるものこそが「推し活」という側面は大いにあるはずだから。
いやでもそうだとしても普通に考えて、好きな人達とは誠実な人間関係を築きたくないか!?!?!?!
しかもそれは可能なんだよ。アイドルとファンとして。もしも相手が自分の存在を全く認知していなかったとしても。

好きな人達へのオリジナルな愛情を、唯一無比の関係性を、推し活なんて言葉で体良く経済活動に絡め取られるのなんか最悪だから、今すぐ推し活をやめて好きな人との人間関係を始めよう