ありきたりな私の命と声をありきたりじゃない瞬間のために捧ぐ

「普変」の歌詞の一節が、あのちゃんのインタビューで取り上げられていた。


顔出しなんてしなくても どこにでもある歌声で ありきたりを歌ってれば大丈夫 馬鹿みたいに回ってれば すぐに一億再生突破 地獄再生可能な負のエネルギー

この歌詞に対してあのちゃんはこう触れていた。


あのちゃんがその真逆にいるから出てきたっていうことを(※尾崎世界観が)言ってくれて。そう見られてるっていうことが伝わっててよかったと思いました。

私はゆるめるモ!時代のあのちゃんのライブを何度か生で見ていて、だからここで言われている意味がよくわかる。
(当時のあのちゃんが与えたその衝撃は、↓の2014年の生誕ライブの映像で触れられると思う)

顔出しなんてしなくても、自己表現することが許される時代になった。やろうと思えばライブもできる。テレビにも出れる。
でも私自身は全部無理ダメの人生の淵で、生身の人間が心と体を剥き出しにその内の1mmでも「本当」が届けば良いと全てを投げ打つ人達の姿によって、ギリギリ救われ続けた人間だった。

(最近見たSAIAKUNANAちゃんのドキュメンタリーもすごくよかった…)

身体を持たず、長らく魂のままインターネットをさまよっていた私が、「誰かに自分の心や作品に興味を持ってもらうためには自分の顔と身体が必要だ」と悟った時に錬成したのが、結果として生身の肉体ではなくバーチャルの肉体であったことは不実なことなのかもしれない、と今でも悩むことがある。
私自身は剥き出しで生きている人間が放つ表現に惹かれ続けているのに、という矛盾があるから。

それを踏まえてもでも、どうしてもやっぱり、私にとっていつも肉体は邪魔なものだった。
私があなたの美しさや可愛さを愛する理由は、私の性別が「」だからではなく、私がn才だからではなく、あなたがあなたにしかない美しさや可愛さを持っているからだ
という至極単純なことが、たかが自分の肉体ごときのせいで伝わらなくなってしまうぐらいなら、別に自分の生身の肉体なんか全然いらないな、という願いがあまりに綺麗に叶ってしまったのが、今である。

だから自分は不実なのかもしれない、ありきたりなのかもしれない、そういう自分への猜疑心と罪悪感で一生ぐるぐるしているしているぐらいなら、このようにこの世に生まれついてしまった命として、ありきたりじゃない瞬間を生むために尽くすことが最も、自分の為し得る誠実なんじゃないかなと、思いました。