未来を創るミライの映画
どこぞやで触れたことがありますが、わたしは映画興行という業界に5年ほど在籍していました。
多分みなさんが想像する3倍くらいすごい映画館にいました。いや、たとえへたくそか。いや、でもわたしが在籍した5年間のうち3年くらいは日本でも来場者数全国2位であり続けたので相当でしょう(1位じゃねんだよねああ笑)。※年間100万人を普通に越える劇場で、そんな場所は全国にいくつかしかありません。
これだとあまりすごさが伝わらないのですが、毎週末来場者が1万人越えるのがデフォって聞いたら、すごい人の数だと思いません?
ちなみに某新宿に某ゴジラ映画館が出来てからは、3位とか4位をうろついています。
頂から見えたものは?
全体の動員としては万年2位なのですが、作品ベースでみると1位になることはよくありました。したがって、間違いなく映画業界の頂点にいたし、大ヒット映画が生まれた時は、現場の最前線にいる感じが半端じゃなかったです。
テレビやネットで騒がれてる狂乱が、目の前にあったりするのですから、それはそれはすごかったです。エ○ァとかワン○ースとかア○雪とかあ○花とかス○ーウォーズとか…
わたしはお客さんではなく届ける側の立場でしたから、作品を商品としてみることが多かったし、関係者のお話を聞く機会も多かったです。
そしてどこよりもリアルな数字の動きを見ることが出来ました。映画芸術がお金になって流通していく感じ。巻き込まれる人の数、そして、その客層まで。
映画は思った以上に客層が割れます。割れない作品もあるけど、なんだかんだ見たい人が見たいものを観ます(当たり前っちゃ当たり前)。
そうした日々の中、映画芸術がお金に変わるさまをみつつ、今後どうなっていくかの業界の流れを聞いていると、なんだか胸騒ぎがしたのでした。
映画よ、これでいいのか!
映画はここ数年で随分と様相を変えてきました。その特徴として大きいのは、とにかく"大衆向け作品"が好まれる傾向にあります。
みんなが普通に楽しめて、可もなく不可もなく見れる作品。もちろんそれは悪いことではないのですが、やがてそうした映画しか売れなくなってくると、結局お金にならないからという理由で、そうではない作品がどんどん淘汰されていきます。
それでも人は"大衆向け作品"を好みます。お客さんを観ていても、その映画をわざわざ見に来ているのか、それとも、することないしとりあえず間違いないから、というマイルドな理由で来ているのかよく分からない人が多いです(…もちろんそうではない人もいるはずですが)。
その辺りは劇場での態度を見ていれば顕著で、ポップコーンを含めた飲食をたくさん買うし(ありがたいことなのですが)、グッズやパンフレットなどはあまり動きません。買う人ももちろんいるけど、来場と鑑賞が目的になっており、作品に入り込むという行為が、薄れています。
たとえ大衆向けの映画でも、そこには情熱と背景があるので、受けることは可能なのですが、どうしてもエンタメ要素が強いものだと、そこを能動的に出来る人は少ない印象です。
どうもゲームセンターや遊園地に来る感じ?なのかな。
それに呼応するかのように、派手なアクションや、わかりやすいドラマ映画が好まれます。ハリウッドなんかはこの辺はものすごくて、必ず面白くなるような展開などを時間で統計とって脚本にしたりします。
何分何秒のところで、どんな展開になると面白く"感じてしまう"かを知っていたりするんですね。データは裏切らないから、そういう作品はなんだかんだハズさない(みんなも気づいているでしょう!!大衆作品の展開が基本ベタなこと!でも見るし見ればおもろいのよ笑)
それ自体は悪いことではないのですが…そういう映画ばかり増えてしまい、何も考えなくてもいい瞬間が増えて、そこにお金が流れていくという図式は、どうなんだろう…?という思いが増したわけです。
素晴らしい技術が発展し、効率化が進み、そういう分野が伸びることは否定できませんけど、いまやハリウッドで作られる映画のほとんどはデジタル技術を駆使して作られます(フィルムで撮影しないってこと)。
それはよいと思うのだけど、そうした分野ばかり伸びてしまって"受け手が考えなくて済む映画"が中心になってしまって、果たしてよいのか…
クリエイターとして何を"考える"べきか
そういう世界に長い間、身を置いて改めて考えたことは、受け手がもっと"考える"ためにはどうするべきか。そういう映画を作り出すために必要なのは何か、ということです。
映画を作るのには"お金"も"時間"も"労力"もめちゃくちゃかかります。そのうえ"創造性"も必要なので、単純作業になってしまうと、これが損なわれます。
ですから創り手は"創ること"に集中し、届けたり、宣伝したり、それでキャッシュを生んだりというのは、別の人間がやるといいです。
これが分業で、こうした作業によって、いままでたくさんの名作が生まれてきました。
そうだったのですが…時代と共にそれがうまくいかなくなってきました。このあたりには様々な要因があるので、これが原因だとは言えないのですが、いずれにせよ、今は映画製作に取り組むと、しがらみも多く、創り手の強烈な個性は出しにくいと言えるでしょう。
言い換えれば、出来るだけ関わる人を少なくした方が、より自由に、強い映画を創れるのです(※一例として製作委員会を外したことでしがらみを減らし、強烈な個性を生み出したのがシン・ゴジラという作品です)。
強い、というのは定義が様々ですが、僕の思う"強い"とは、"どれだけ考えることができるか"ということになります。強烈な印象ですね。これは過激、という意味ではないです。静かに考えさせられる映画もたくさんありますからね。
例えば演出で言うと、映画dieAterにも仕掛けていますが、言いたいことを明言しすぎない、などがあります。それは自分で考えようよ、という意味を込めて答えを書いていないんですよね、わざと。与えて受け取ってもらい、噛み砕いてまた返してもらう。
という、コミュニケーションが生まれる映画ですね。それだw
ここで圧倒的に突出するためには、ひとりで創る、ひとりでやる、必要がありました。結果的に、ある段階までは、ひとりでここまでやり遂げました。
既存の映画上映システムを使わない点や、クラウドファンディングにて資金調達した点、編集も含めて自分でやった点、などはノウハウとしても活かせそう気がします。
ちなみに続編のクラウドファンディングは実施中。
https://glutenfreeter.wixsite.com/fujimoto-a/dieater-1
考える映画を作った後に起きたこと
さて、そうして出来た映画"dieAter"ですが、こうして規制なく作ったがゆえに、印象的な現象が起きました。
監督でありながら、興行や宣伝をしていくことで、この映画を見て頂いたお客さんと創り手の、距離がとてつもなく近かった。
また監督を通じてお客さんと出演者がSNSなどで繋がっていくこともあった。ここ最近の大きな流れは、出演者の一人であるロペあゆみの個展です。
映画を通じてロペを知った方が来てくれることもあった。さらにロペの作品に触れることでロペの感性にも触れることができた。そうしたうえでさらに映画を見直せば、もちろん印象は変わる。
これは他の出演者やお客さんにも起きたことなのですが、次第に共感性が高まっていく映画になっていったんですね。
もともと、この映画のテーマは…
これはある病についての記憶とその、記録。
というものでした。これには意味があって、記憶は変わるが、記録は変わらない、という意味でした。映画"dieAter"は変わりいく様々な時期の経験談を語ってもらっています。
今を語る人、過去を語る人、未来に向けて語る人。それらはすべて、記憶された当事者の物語です。それを記録にしたのです。
これをいつか出演者が振り返ったときに、こんなこともあったなあ、と思ってくれたらいいなあ、という願いが込められたテーマでした。
しかし、実際に起きたことは、出演者だけでなく、それを取り巻くすべての人が、この映画への思いを変え、記憶を変えていく様子です。内容は変わっていないのに!
ある人にとっては、今まで以上に感動する作品になったかもしれません。もしかするとある人にとっては、不快なものになっているかもしれません。
いずれにしても、出演者が語ってくれた、過去の記憶が記録になったことで、客観的に変わっていっている様子を目にできました。し、これからも変わっていくのだろうと思いました。映画は変わらないのに(リメイクしたけど…笑)
生きている映画である
そんなこんなで、中身は変わらないのに、人々のつながりで姿を変えていく映画。こんな映画はそうそうないぞ。リメイク版中身変わってますやん!!という突っ込みはさておき…笑
とはいえリメイク版もお客さんの反応をダイレクトに感じて作ったものです。最初は作る気ない!って言ってましたからね。僕の記憶もまた変わっていているわけです。
この映画は、生きているんだな。その息遣いを確かに感じたし、これからもっと感じることになるのでしょう。楽しみです。
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