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17歳が考える死とは何か。

映画“dieAter”という作品を作りました。

DIE+EATER=DIEATER

造語です。いまさらですが(笑)

ダイエッターともかけつつ、『DIE(死)』を『EATER(食べる人)』という意味です。ダイイーターと読みます。

https://peraichi.com/landing_pages/view/dieater

生きることは簡単じゃなかった

さて、Mはいま18歳で現在進行形の当事者です。この写真を提供してくれました。SNSを通じて知り合って、写真提供をお願いしたところ、快く受けてくれました。

Mは早くに病状が現れ、長い入院生活を送っていました。今は退院しましたが、上手に食べるのはまだ難しい状況です。

家族、特に父との不和があり、それは症状と向き合う上で少し厄介な問題(課題?)です。Mの父は発達障害&透析患者で、父も治療中の身です。

『今日はMのために病院に行ってきたよ!』

と発言するそうですが、Mからするとそれがさっぱり理解不能だそう。

恐らく父にはそんなに悪気なく、よ~し、今日も治療して自分と向き合って、家族と仲良くできるようにしよう!

というニュアンスで話してる思うのですが(わたしの勝手な想像です)、Mは「あなたの病気なのになぜわたしが出てくるの?」という印象になるらしい。

これは一例ですが、こうした日常的な小さな誤解が、やがて深くなることはありますね。
※Mが摂食障害なのは父親が原因という意味ではないのであしからず。

Mも父の特性は理解しつつありますが、やはり折り合いつけるのが難しいこともあるみたい。理解することと、共有することの違いというか。

例えば他にはMの父は、テレビと会話する(発達障害の方に見られることがあります)。ことがしばしばあります。

これがうるさかったり、そもそも意味が分からなかったりするのです。

父は恐らく、話されてるから反射的に答えている、頭に浮かんだから口にしている、くらいの感じだと思います。

聞いてる方からすると、意味不明だったりもするでしょう(特に怒っていたりするとは不快かもしれません)

そうした経験から、反面教師的にあまり思ったことを口にしない方が良いのではないか?というMの性格形成にもつながったりします。

死を見つめる瞬間

そんなMは、中々言いたいことが言い出せません。
つらい、くるしい、たすけて、そういった小さな単語さえも。

それの積み重ねが、拒食や、過食などの代償行為で現れます(かなしみ)。
が、それらの代償行為があるうちは良いのですが、体調によってできないこともあるのです。

もうどうしようもない。終わった。終わってしまった。

そういう深い悲しみが深淵に達すると、自死という選択を衝動的にとってしまうことが。

Mはまさにそのような状況に陥ってしまい、気が付いたら電源コードで首を吊っていたそう。

助けて、助けて、助けて、という声は心で響いているのに、言えないまま体が従ってくれない状態です。

あるんです、こういうことが。人が死と向き合う時の精神状態は、必ずしも同じような状態ではありません。

衝動的に訪れるものもあれば、崩壊するようにやってくることもある。意識もせず突然訪れることもある。生きていると同じくらい、死ぬこともまた不確実です。

幸いにMの自死はここで失敗します。

電源コードでは十分でなかったようで、なんとか一命をとりとめます。

ここでようやく、父親に「助けて」と懇願したそうです。

父はとりあえず状況が読み込めないようでしたが、混乱するMをなだめることから始めてくれたようです。

命を考える

それ以来、Mは自殺は絶対にしないと決めたそう。本当に怖かったし、2度としたくないと。

中には繰り返してしまう人もいますし、なぜ死なせてくれなかったの、というヒトもいます。それはあり得ることだと思います。

生きるのは、簡単じゃあない。死んだ方がマシ、という感情はその人が得た経験と感覚が生み出す特有のもので、分からない人には、分からないことです。

が、そうではない子もいます。自死を乗り越えたことで(乗り越えたという表現は正確ではないかもしれませんが)生きたいと、願う人もいる。

僕はMが生きてくれていて、よかったと思いました。

摂食障害の方の中には何割か、発達障害を併発していることもあります(全員ではない!)。

こうした『違い』についても、わたしたちは知っていく必要があるのだろうな、と思う。

MとY

そんなMと、先日会ってきました。

Twitterで知り合った共通の友人であるYと3人で。Yは取材で出演してくれている子です。

言いたいことが言えるTwitterはそういう意味でとても良いツールなんだろう。現実ではうまくしゃべれないことも、SNS上では喋ることが出来る場合もあります。

二人とも話すことがあまり得意とは言えません。

発声そのものが得意でないため…要は声が小さいのですが、発声が得意でないという方がわたしにはしっくりきます。ゆえに声が聴きとりにくいことがあります。

は?なんて言ったの?

それを、こんな風に威圧的に返しちゃうと、委縮しますよね。

Yがわたしに言っていたのこんな内容です。

『うちむっちゃ声が小さいみたいで、よく聞き返されるねん…』

と。本人は鼓膜を通して聞こえているのだから、外に対して大きいか小さいのかの客観的判断はできませんからね。そこまで小さいつもりはないのでしょう。

上のような発言は、ある程度の信頼関係を築かないと、聞き出せないことかもしれません。

初対面の相手に「わたし声小さいので聞き取りにくいですが、威圧的に聞き返されると委縮してしまうのでやめてください」とか、言えないかな…w

言える人もいますし、それはそれでコミュニケーションの手段です。

こころでコミュニケーションをするというのは、あまり簡単ではありません。

若い二人が命を見つめあう瞬間

二人は岐阜と山形にそれぞれ住んでおり、今回は会うために東京を選んだのです。そこに混ざったのですが…(笑)

摂食障害という病を通じてSNSで知り合って、時に支えあい、時に励ましあいながら、時にはケンカもしたかもしれませんが、こうして現実に会うことが出来ました。

命に関わる病気ですし、二人とも症状が酷いときは、自分で立つこともきつい時期がありました。Mは自殺未遂も経験しています。

どうして死ななかったのか、どうして生きているのか。

答えなどあるわけもなく、意味があるわけもない。

しかし、こうして出会えたこと。あるいは映画に出てもらったこと。あるいは映画を撮ったこと、撮らせてもらえたこと。

それがすこしでも生きている意味になるのであれば、今はそれでいいのかもしれない。難しいことはよくわからない。

二人は別れ際に、小さくは抱き合って、また会おうねと言ってました。

生きることは、そんなに簡単じゃない。

しっかり生きてほしいとか、がんばって病気を治してとか、わたしには言えません。ただ、命をみつめる。それだけ。

ここで観れるのでどうぞ。
https://glutenfreeter.wixsite.com/fujimoto-a/theater


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